学校のチャイムは何のためにあるのか、あるいは議論の揚げ足をとりまくる不毛さについて
そういえば、最近はチャイムのない学校にしか勤務していない。
現任校も、一つ前の勤務校も、いわゆる「ノーチャイム」だった。
(たしか)その前の勤務校にはチャイムがあったと思うのだけど、あまり覚えていない。
まあ、そういう意味で僕自身はノーチャイムに慣れきってしまったのだけど、特に初めてノーチャイムの学校に勤務する先生方にとっては、「チャイムの無い中で学校の時程が過ぎていく」というのは衝撃的なシステムらしい。
(そういえば僕も最初にノーチャイムの学校に勤務したときはそう思ったような。忘れたけど)
だから、というか、職員室でも
「うちの学校、なんでチャイムがないんですかね?」
「チャイムがあるなら使えばいいんじゃないですか?」
なんていう話題がたまに出てくる。
(実際、勤務校にも機能としてのチャイムは設置されていて、たとえば試験の日などはチャイムを使って行動している)
そういった話題のたび、僕個人としては
「チャイムがないことで自主性・自律性を高めている」
「チャイムがある状態からせっかくノーチャイムにしたのだから後戻りは避けるべきだ」
なんていう意見を述べつつ、チャイム導入には反対の立場を取ることが多かったのだけど、どうも自分でも納得がいっていない部分もあり、そのあたりをもっとしっかり考えてみたくなった。
…
…
で、考えてみた結果、出た結論は
チャイムがあろうがなかろうがどっちでも変わらないんじゃないか
ということ。
うん、元も子もない。
なぜこんな結論になったかというと、想定されうる「チャイム導入派」「ノーチャイム派」の根拠となる議論のほとんどが怪しいものだと思えてきたからだ。
実際に例をあげてみると、
【チャイム導入派】
- チャイムがあると時間通りに授業が始められる
▶ これはチャイムの有無とは無関係。ノーチャイムでも先生が教室にいれば始まれるし、チャイムがあっても先生が遅れてくれば始まらない。また、授業中に学習に向かう姿勢を育てていれば、先生がいなくても授業は「勝手に始まっている」。 - チャイムがあることで、時間を守る意識が高まる
▶ 根拠が薄い。逆にチャイムがあると「チャイムに合わせて従うだけ」という意識のもとに動くので、「時間を(意識的に)守る」という意識は低くなるのではないか。 - チャイムがあると、メリハリがつく
▶ 根拠が薄い。 授業時間と休み時間の区別は、授業の号令等、担当の教員の裁量でいくらでもつけることができるし、実際生徒はチャイムよりも号令などを基準にその区別をつけているのではないか。
▶ また、メリハリは悪い方向にもつく可能性がある。本来、「学習」と「生活」は不可分なものであるはずなのに、メリハリが「ついてしまっている」と、休み時間にも授業内容を考え続ける、といったことが起きにくくなる可能性もある。 - チャイムがあると聴覚情報にも訴えることができるので分かりやすい
▶ これは確実に言える
【ノーチャイム派】
- チャイムがないことで、自分で時計を見て動く癖がつく
▶ 根拠が薄い。たとえば生徒が「この休み時間中に○○ができるか」ということを判断する場合は、チャイムの有無に関わらず時計は見て動かないといけないし、時計を見る回数に変化は想定しづらい。
▶ また、「自分で時計を見て動く癖」が本当に必要なのかも議論は必要。社会人ならば大事な用事はアラームをかけて対処するわけで、その癖があってもなくても特に困らないはず。 - チャイムがないことで自主性・自律性が育つ
▶ 根拠が薄い。結局、チャイムがなくても「決められた時程を決められたように過ごす」ことには変わりないので、そこに自主性も自律性も存在しない。 - 「チャイムあり」→「ノーチャイム」と進歩したのだから、元に戻すのは退化だ
▶ そもそもノーチャイムも広い意味での「実験」だったわけで、戻るのはさほどネガティブでもない。 - チャイムを使わずに回っているのだから使わなくてよい
▶ そうとも言えない。(何らかの力を育てるという名目はあるにせよ)せっかくある「便利なもの(チャイム)」をわざわざ使わずに教育だと言い張るのは、一般の大人相手に「暗算力を鍛えるために電卓やパソコンを使わないように」と言っているようなもので、不自然。また、(上述の通り)育てられる「力」についての根拠も薄い。 - チャイムがあると学校が窮屈・不自由に感じる
▶ チャイムとは無関係。上述のように、現状の学校はそもそも「時程」という縄に縛られているので、窮屈であり不自由。チャイムがあるとそれが顕在化しやすいだけで、本質は変わらない。
▶ また、生徒が学校を窮屈・不自由に感じるのは教員の管理欲求・支配欲求によるものが理由の大部分を占めるので、チャイムの有無による効果はごくわずか。 - チャイムがあると、急な日程変更に対応しずらい
▶ これも、確実。
……ということで、僕の中で納得できる論拠は「分かりやすさ」と「日程変更への対応」のみ。
どっちでもいいじゃん。 ←いまここ
【島生活】グレは全身を味わう
今日魚屋に並んでいたグレは大きかった。
(魚屋さんいわく、「この時期のグレはこんなもんだけん」だそうだけど、やっぱり絶対的な大きさとして、デカい)
すごいなあ、という顔をしながらグレを見ていたら、魚屋さんがボールペンを持ってきてくれた。
やっぱデカい。
で、買う。
今日が土曜日で魚屋さん(※日曜定休)がタイムセール中だったため、この値段。しかし、このサイズの寒グレが1500円で買えるとは、やはり恐ろし、隠岐の魚介力。
家に帰ってみるとさらに大きく感じる。
どーーーん
さばく。
ウロコを取るのに時間がかかってしまった。
そしてヒレだの骨だのが硬い。痛い。
…でも白子(タッパーに入ってるやつ)も取れたので満足。
半身は刺し身用で、残りと頭は鍋で食べようかなーというところ。
(ちょうど明日、食事持ち寄りの集まりがあるから、そこに持っていこうかしら)
半身を刺し身用にさばいていたら、どうもグレの皮もおいしそうに思えてきたので、捨てずに今日の食材に回すことに。
結果。
グレは寝かせた方がおいしい(らしい)ので、今日の夕食ではメインの部位はおあずけ。
- さばくときに取れた中落ち的な刺し身
- 白子ポン酢
- 皮しゃぶ
うん。白子も皮も、捨てなくて良かった。
唯一の反省点は、ビールじゃなくて日本酒だったな、と。
その「支援」は「強制」になっていないか、あるいは「妨害」になっていないか。
今回は短文でまとめよう。
「支援」とは、
「本人がもともと『やりたい』と思っていた内容について、本人が自分でできる状態になるように手助けすること」
であって、
- 本人が『やりたくない』と思っていることを”手助け”する → 【強制】
- 本人が自分でできるようになったあとも”手助け”する → 【妨害】
である。
学校の「支援」には、これを忘れてしまったものが本当に多い。
- 学習支援を、成績が○以下の生徒全員に…
▶ 支援ではなく【強制】です。 - 水泳で25m泳げない子どもを放課後に集めて…
▶ 支援ではなく【強制】です。 - さらなる支援をするために、自主的に活動をしたときも都度報告を…
▶ 支援ではなく【妨害】です。 - 子どもたちが今後も○○を続けられるように、継続した支援を…
▶ 支援ではなく【妨害】です。 - ……
「支援」をする側の「承認欲求」というか「支配欲求」みたいなのが強いと、こういう現象が起こっちゃうんだよなー
……そう考えると、本当に「支配欲求」ってやつは教育活動の中にひそむ敵なんだな、と。
そこらへんは以前↓の記事にも書いた。
「平均」を見て議論すること、あるいは集団を「分かった」と思うこと
生徒たちはよく「平均点」を気にする。
試験を返したあとに
「先生、平均点は何点ですか?」
と聞かれるのだけど、以前の私はだいたい一言、
「知らない」
とぶっきらぼうに答えるだけだった。
まあ、本当に切実な理由で平均点を知りたい生徒も中にはいるので、最近はそんなに冷たい反応はしていないのだけど。少なくとも自分から「平均点は○点でした」のような発表をすることはない。
「この学校で平均点を知って、どんな意味があるの?」
と質問を返したこともある。これはいじわるではなくて、本当に個人的な興味として。
というのも、勤務校は学校としても校務制度としても、「平均点」の意味がなくなるような特徴ばかりを持っているからだ。
そのような特徴を簡単に挙げていくと、
- 習熟度別の少人数クラスである
▷ そもそも少人数なので平均点がぶれやすいし、習熟度別に違う問題なのでクラス間比較もできなければ習熟度別のメンバー入れ替えがあるので前の定期テストとの比較もできない。 - 学年ごとの多様性が激しい
▷ 全国から生徒が集まってくる関係もあり、勤務校は学年によって学力層が大きく異なるし、クラスの習熟度の分け方も年度ごとにゼロベースで議論をしている。その状態では少なくとも他学年や前年度との単純比較ができない。 - 生徒の進路が、超がつくほど多様である
▷ 1つのクラスに難関大学志望者と就職志望者がいるのが勤務校の最大の特徴である。同じ授業を受けていたとしても、それぞれ必要なレベルが全然異なるのだから、「平均」を気にしても意味がないし、それを知っても誰の参考にもならない。
など。
つまるところ、「平均点」が意味をなすための大前提である「同質な生徒が大量にいる」という状況が、勤務校には存在しないのだ。
(もちろんいい意味で)
ただ、「勤務校においての”平均点”を知ることの意味が分からない」とは言っても、もちろん「平均を知りたい」と言ってくる生徒の気持ちが完全に分からないわけではない。
「平均」を知ることで、何か全体の状況やその中での自分の状況が「分かった」気にはなるし、それが安心の材料にもなるのだろう。
うん、その気持ちは分かる。
でも、やはりもう一度考えてほしい、とも思う。
- 今回のテストは平均点がいつもより低かったから、私の点数が低くても安心
- 次のテストでは最低でも平均点を目指す
なんていうのは全国の中高生のお決まりの文句なのだけど、(勤務校のように)学校の制度や状況によっては、これらの言葉にほとんど意味がなくなるのだ。
「平均点」みたいな、よく分からない”世間”の代表みたいな存在にびくびくしたり優越感をもったりするのではなくて、もっと「自分自身」と向き合ったほうがずっと有益だと思っている。
そもそも中学・高校の定期テストがいかにテキトーに作られているか(もちろん真面目に丁寧に作成している先生方もいる)を知っている身としては、学校の定期テストの結果で一喜一憂する必要すらないと思うのだけど。これは蛇足。
…
…
問題は、ここからだ。
本当の問題は、教員の中にも「平均点」信者がいること。
(さらに厄介なことに、そういった方が校内研修などを担当していること)
たとえば高校3年生の数学の例で言うと、
- 進路に向けての数学の使い方
▷ 数学Ⅲまで使う生徒、数学IA・ⅡBを使う生徒、数学IAのみを使う生徒、数学を使わない生徒 - 履修している数学の授業コマ数
▷ 週9コマの生徒、週6コマの生徒、週3コマの生徒、週0コマの生徒 - 進路に向けた試験の時期
▷ 試験が9月にある生徒、12月にある生徒、センター試験までの生徒、2次試験までの生徒
と、簡単に挙げただけでも何十種類ものパターンの「数学との関わり方」がある。しかもその分布は、学年ごとにガラッと変わる。
それを完全に無視して、たとえば全員が受けている外部模試の、学年全体の「平均点」を用いて
「昨年度と比較して上がった点としては……」
「○○の点数が低いから今後は……」
「このデータをエビデンスに……」
などと議論することにはほとんど意味がないことなのに、まあ、それをしてしまっている現状がある。
一応補足しておくと、勤務校のような学校でも、外部模試の結果は「特定の個人に対するアドバイスの参考資料」としては十分に使うことができる。まあ、それにしても校内順位などは基本的にあてにならないので注意が必要だけれども。
「平均点」はたしかに「分かりやすい」。
しかし、「平均点」は見た人を「分かった気にさせてしまう」ものでもある。
本当はとても複雑で、個別にじっくりとデータを見ていかないと到底分からないような事柄でも、「平均点」を見ると把握ができた気になってしまう。
もちろん、何十万人に影響のある政策だとか、大量のデータを処理すべき事柄の中で、平均を使うことが必要なときもあるし、それは個々の人やデータの「顔が見えない」状況だから仕方がないとも言える。だけど、そういうときも母集団の性質を把握しておくことは必要だし、平均のほかに分散や中央値などほかの指標の併用も欠かせない。
その意味で学校は、規模の大小はあれど少なからず「顔が見える」関係だし、平均を使うにせよ使わないにせよ、母集団の性質を考えなくてよい理由もない。
「平均点」を見て個人を見ず、それを「エビデンス」として立てた方策は、果たしてどこを向いているのだろうか。
(そんな方法で方策を考えるくらいなら、生徒のナマの声を聴いた方が何倍も有益だと思うんだけどなあ)
_____
蛇足。
さらに言うと、実は、必ず正しいと言える状態で生徒の状況が分かったとしても、「どんな方策をとるのがいいか」は1つに決まるわけではない。
たとえば、「○○は得意で✕✕は苦手だ」と分かったとしても「✕✕を鍛えよう」という方策と「○○をもっと伸ばそう」という方策のどちらが良いかは分からないし、どちらかが正しいわけでもない。
「勉強の仕方が分からない」のなら、「勉強の仕方を教える」のもいいけど、「自分で勉強の仕方を考える機会を与える」のだって十分に理にかなった方策だ。
その意味で、「データによると生徒たちは〜〜なのだから**しなさい」という言説にも本当は論理性が何もないのだけど。なんだかなあ。
つんどく解消プロジェクト。【2020年1月】
悩みがある。
――僕も物想う30代だ。当然ある。
目下いちばんの悩みは、
つんどくが減らないこと。
一向に減る気配がない。
今日も5冊、新しい本が Amazon 氏から送られてきた。
前回、氏から送られてきた本は10冊くらいあったが、まだ2冊しか読めていない。
つんどくを溜めたいとは決して思っていない。
――だから「減らしたい」と思っているのだ。
どうでもいいのだけど、僕は「積ん読」という表記があまり好きではない。理由は特にない。
とにかくここは僕のブログなので今後も「つんどく」と表記していく。
これを解決する、なにか妙案はないものか……。
_____
なんてポエム調に書いていても疲れるのでこの記事の簡単に趣旨を説明すると、
- つんどくを少しでも解消するために
- ブログでつんどくリストを紹介したい。
- 周りの人がリストを見ていると思うとちょっと解消への意欲も湧くし
- もしリストを見た人が「この本よかったよ」とか
- 「この本読んだら内容教えて」とか
- 「この本で読書会しよーぜ」とか
- 「読み終わったら貸してください」とか
- 「次はこの本がおすすめだよ」とか
- はたまた「その本読むの時間のムダだよ」とか
- 少しでも反応してくれたら、とても嬉しいし
- このブログを読んでくださっている方にも貢献できるんじゃないかなーと思うので
- とりあえず月イチくらいのペースを目標に
- やってみます。
- はい。
一応、つんどくに対しては、専門家から「そんなに悪いことじゃない」という肯定的な意見も出されていることも知ってはいるんです。
参考:
だけど、(僕の家に来たことがある人は分かると思うけれど)さすがに、ね、って思うんですよ。
ということで、この記事のスタンスとしては、つんどくを完全に悪者とは思わないけど、個人的な事情で減らしたいからちょっとがんばってみます、という感じです。
____
* つんどくリスト *
- 今日届いたもの
小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 (フェニックスシリーズ)
- 作者:ドナ・ジャクソン・ナカザワ,Donna Jackson Nakazawa
- 出版社/メーカー: パンローリング
- 発売日: 2018/02/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 以前からあるもの(全部とは言っていない)
- 少し読んだもの
- だいぶ読んだもの
- 読み終わったもの(えらい!)
※ 趣旨から言うとこれは書かなくてもいいのだけど、テンションを上げるため。
てことで、2月末の記事ではリストが少しでも減ってますように……!
このシリーズが今回で最後となったら、、お察しください!!
【島生活】欠航の日は休校の日、あるいは「自然には勝てない」という正しい前提をもつこと
朝の6:30に島内無線が響きわたる。
まずは隠岐汽船から
「本日、海上時化のため、フェリーは終日欠航します」
続いて隠岐観光から
「内航船いそかぜ、フェリーどうぜんは終日欠航します」
この2つの放送が同じ内容だと思うかもしれないが、前者は本土から隠岐諸島までのフェリーの欠航、後者は隠岐諸島間での内航船の欠航を指している。
…そう来たか、と思ってしばらく待っていると、職場からの電話連絡網がまわってくる。
「本日、休校です」
冬場のこの時期、島の学校はよく休校する。
と言うのも、生徒の1/4あまりは上述の内航船で通学しているので、内航船が欠航になると通学の手段がなくなり、臨時休校にせざるを得ないからだ。
休校はもちろん「休める」というメリットもあるし、それはそれで嬉しいことも多いのだけど、教員にしてみると意外に困ったイベントだったりもする。
休校のデメリットとしては、
- 授業の予定が崩れる
▷ 特にテスト前の被害は甚大。赴任当初は(今とは違い)結構計画を練った授業をしていたので、休校システムに慣れない頃は発狂しそうになっていた。「今日の授業の代替日はあるんですか?」とか周りの先生に聞いたり(答えはもちろん「ないものはない」)。
▷ 今は単元内自由進度の形式をとっているので以前ほど慌てなくなったが、そのぶん部活の計画を気にするようになったので、そこがネックになっていたりする。 - 結局出勤はしなければならない
▷ 休校になるのは生徒だけなので、教員は普通に出勤する。もちろん普段より年休はとりやすいのだけど、会議・打ち合わせは予定通り行われるので、あまり油断できない。 - 業務効率が下がりがち
▷ これは個人差があるだろうけど、僕は長い時間のデスクワークが苦手で、あまり効率も上がらないため、そんなに仕事もはかどらない。休校のたびに、「やっぱりデスクワークは半日でいいや」と思ってしまう。やっぱり生徒がいてこその学校である。 - 船の欠航によりシンプルに生活物資に困る
▷ 休校のせい、ではないけれど、休校の原因となる「船の欠航」は普通に困る。2〜3日も欠航が続くと、島から生鮮食品もなくなる。
などなど。
赴任した最初の年、休校は10回と「当たり年」。
反して2年目の去年は1回だけ。この年度ごとのバラつきの読めなさも対応の難しさの一因だ。
今年度は今のところ休校6回。
昨日・今日と2日連続で、島の人の話だと明後日も怪しいらしい。
……もう今週は特別休校ウィークでいいんじゃないか?
なんて無責任なことを考えてしまったり。
_____
以下、蛇足。
島生まれの人や島暮らしの長い人は、予想外の欠航でどんなに大事な予定が崩れたとしても、
「自然には勝てんけん」
「なんとかなるだわい」
と、決して慌てることなく、淡々と、それでいて確実な対応をする。
島の人と一緒に仕事をするとき、いつも皆さんの臨機応変な対応力に助けられるのだけど、その力の根源はこの感覚なのかな、とよく思う。
「圧倒的に敵わない力( = 自然)の前で、自分たちはどう生きるか」。
島の人たちは常にそういった問いにぶつかりながら生きている。
文科省とかの言う「予測困難な社会の変化に対応する力」って、こういうところで鍛えられる力が“本物”なんじゃないのか、と思っている。
実際、東京から島に来た人が、船の欠航など島ならではのトラブルに出会って慌てふためいているのを見ることも多いのだけど、そういうとき僕は心の奥で「そんなんじゃ都会でしか生きていけないよ」なんて思ってしまう。
「何事も思い通りに管理できるわけじゃないんだよ」とも。(それが幻想だって、あなたは3.11で気づかなかったのかい?)
そんな島暮らしの、3回目の冬。
過去の自作テストを辛口批評してみた。
先日、センター試験の数学の問題を上から目線で辛口批評する、という記事を書いたのだけど、
参考:
それを読んだ生徒から
「先生、せっかくだから自分が昔作ったテストでもやってくださいよ」
と言われたので、
「それオモシロいじゃん」
と。
…さすがに現任校のテスト問題だといろいろとマズそうなので、過去の勤務校で実際に出した問題を一部改変しつつ公開、批評していきます。
ちなみにそれらの学校では、そもそも教員用のパソコンが配られていなくて、教員は各自自分のパソコンを持っていって作業する、というスタイルでした。
ってことで業務データの無断持ち出しうんぬんにはならないんだからね! と念押ししときます。笑
とりあえず今回は、中1の1学期期末テストの問題批評を。
この学校は1学期中間テストがあったので、試験範囲は
- 正負の数(基礎的な計算問題は中間テストの範囲だったので、後半の応用問題等がメインの範囲)
- 文字と式(文字式のルールや、日常の事柄を文字を使って表す意味、など)
あたり。
____
- って、表紙つきかよ。
- そういえば毎回作ってたけども。ヒマだったのか、当時の僕。
- 毎回100部以上折って挟んで冊子形式に…、って結構大変だったな、これ。
- そんなことしてるから心の余裕がなくなっていくんだよ、と教えてやりたい。
- …てかこれ意味あったのか?
- 分かってるよ、フォントはモリサワのリュウミンで、教科書とか各種学力テストのフォントと揃えたんだろ。
- 当時は「入試のときに緊張しないように」とか考えてたけど、やっぱこれ意味あったのか?
- てか注意書きが過保護!笑
- 「どの順番から解き始めても構いません」って、当たり前だから!
- まぁ、それが苦手な生徒はいたけども。表紙に書いてあっても「あ、そうか!」ってならないしなあ。
- やっぱ別に要らなかったなー
- あ、でもいま思い出したけど、たしか最初の学校で「テストを配る順番で有利不利が生まれないように、問題には表紙をつけてください」って指導があって、その名残だった気が。
- にしてももっとシンプルに作りゃ良かったなー
- そして表紙の下部にこの文言!
- 圧倒的に要らない笑
- でも丁寧な塾はちゃんと連絡をくれてた。ありがたい限り。
- そういえばこれも、最初の学校の近場の塾が「生徒から定期試験の過去問を買い取る」「買い取ったテストから作った対策問題を売る」っていう商売してたことへの対抗のつもりだった気が。
- その後、そもそも試験のモデル問題を事前配布とかするようになるんだけどね。
- ようやく問題が始まった…
- 最初は普通の計算問題ね。
- 1問1点、って数学じゃあんまり見ないよね。さすがにキツくないか?
- …そういえばここだけを落として99点の生徒もいたっけ。
- 第1問 (5)(9)(10) とかは2点問題でもいい気がするなぁ。
- 第2問 (1)(2) が2点問題なのは…、なぜ?
- たぶん試験範囲(正負のわり算以降)の都合なんだろうけど、それって大人の都合だよね。問題を見たときのバランスは明らかに悪い。
- まぁサービス問題と言えなくはない。
- 第2問 (6) は分配法則を使って計算を楽にする問題なんだけど、普通に通分しても大差ないよね。もっといい数値例なかったのかしら。
- 第2問 (7)(8) はだいぶ手加減したよね。3点問題でもう少しキツめの計算入れても良かったかもね。
- 第3問もオーソドックス。
- 第3問 (8) を、もうちょっと数学的に意味のある形にしても良かった。シンプルな式なら (a + b)÷2 とか。
- まぁ、割る数をマイナスにしたかった、という意図は分かるけども。いまいち。
- 第4問は第3問と独立な感じで出してるけど、せっかく表と裏の関係なんだから、お互いにヒントになるような問題内容にしても良かったよね。数学が苦手な生徒もじっくり考えれば分かるような問題が理想。
- 第4問 (2) 、それを聞くなら b^2-4ac だろう。そういうところで高校数学に接続させていこうよ、ねえ!
- 第5問…。まぁオーソドックスではあるけどね。せめて (3) はもう少し冒険すりゃよかったんじゃん?
- 知識・理解の問題を第6問に持ってくるわけね。
- 結構多くの先生は最初に持ってくるよね、なぜか。
- まぁあくまで最初は計算問題にして用語問題は補助的に、という方針は納得できないわけではない。
- 第6問の役割は、「基礎的な数学記号・用語・概念を理解しているかを確認する」ことだと思うので、まぁそんなに攻める必要はないと思う。
- その意味で (3) はちょっとやりすぎかなー。「絶対値」って言葉の意味の理解確認の範囲を越えている。
- 反省しなさい。
- 第7問はとても大切ね。自分でちゃんと例を作れるか。
- (1) と (2) で方向性ばらばらだけども。ご愛嬌と言えばご愛嬌。
- 第7問 (2) は ○+△=-7 となる○と△の例を答えなさい、って、ちょっと難しかったかもな。 ○+△=-2(○は正)と ○+△=3(○は負)くらいにしとけば解きやすかったかも。
- そういえばこの問題、解答欄を作るのに苦労したっけ…。
- 第8問…。超絶ダサい…。
- いや、たしか教科書に載っていた問題だったから、一応流用したんだけどさ。
- 正直、要らないよね。
- これを出すくらいなら、この問題を削ってほかの問題の配点を上げたほうが良かったよね。
- たぶん、観点ごとの配点バランスの都合だったんだろうけどさ。そんな大人の都合を生徒に押しつけるんじゃあないよ。
- 第9問はいいと思うよ。間違ってる理由をちゃんと文章で記述するのも大事。
- (せっかくだから正しい答えを聞いても良かった気はするけども)
- 第10問 (1) は攻めたなあ。①②③の誘導で「マイナス×マイナス=プラス」を説明するのも比較的よく練られてるよね。
- とっても残念ながら (2) は超ふつうなのだけど。
- まぁ教科書にも載ってるし、内容も普通に実用的だし、(2) も悪いわけじゃないんだけどね。
- もう一息、身長とは違った例を出しつつ「たしかにこれなら正負の数使って計算すると楽だよなー」って自然に思ってもらいたいところ。
- 結果的に、第10 問は (1) と (2) を入れ替えたほうが良かった気がするなあ。
【総評】
- 総じて、中学1年生1学期の定期テスト問題として、幅広い学力層にアプローチしようとしてることは分かる、かな。
- しっかり教科書の内容が分かっていれば8割、ワークもできて9割、それ以外の応用問題でラスト1割、くらいね。まぁ理解はできる。
- ただ、全体的に「広く浅く」聞こうとしすぎな気もするかな。
- 記号・用語・概念の問題とか、出題内容を絞っても良かったかも。
- 問題数をもっと減らすことで、じっくり考えてほしい問題にも取り組んでもらえるわけで。
- 定期試験は「学力の到達度を測る」意味もあるけど、「試験を通して思考力を鍛える」って意味もあって良いと思うので、数学が苦手な生徒にも後者の機会が生まれるような問題にしたいなあと。
- あと、大前提となるテスト範囲がひどかったよね。なんだよ、「正負の数のわり算から」って。
- そこは前の範囲に入れとけよ。生徒も勉強しづらいよ。
- 文字式もさ、等式・不等式を立てるとこまで進んでおけよ。次の範囲もめっちゃ中途半端じゃないかよ。
- テスト範囲を見通した授業設計、とかさ。お前、今でも苦手だよな。
- 反省しなさい。
…はい。
自分が作った問題だとあんまり辛口になりきれないなあ。と気づいた深夜1時。
次回があるかどうかはこの記事への反応次第ですね。笑