旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

《2014年と2015年の記録》「東日本大震災」について、僕が福島の子どもたちに語ったこと。

この投稿は、2014年・2015年の3月11日にFacebook上に投稿した内容を保存用に転載したものです。僕は、2013年度は福島県南相馬市の、2014年度は福島県いわき市の公立中学校で働いていました。どちらも震災で大きな被害を受けた地域の中学校でした。今からお読みいただく方は、そちらも念頭においていただけると幸いです。

2014年

今日は偶然、僕の受け持つ1年生の全クラスで授業があったので、いつもの雑談の時間を延長し、震災にたいする僕の想いを伝えました。
  • 2011年3月11日時点では、僕はまだ教員ではなく、教員をずっと続けるとは思っていなかったこと
  • 震災後、偶然見たテレビで映し出された中学校の卒業式のニュースが、今でも頭から離れないこと
  • そのニュースが、自分の「被災地における人材育成」という志向の出発点となっていること
  • 2012年3月11日、黙祷をしようとしない友人に激怒したこと
  • しかしそのような「震災の風化」が被災地以外の地域では着々と進んでいること
  • だからこそ、被災地に住む僕たちは震災のことを発信しないといけないし、今の中学生世代はそれができる最後の世代であること
箇条書きにしてみるととりとめのない話題ばかりですが、子どもたちが(一部ちゃちゃを交えながらも)すごくしっかりと話を聞いてくれたことが嬉しかったです。
(何人かの生徒は、授業のコメントに震災にまつわる体験談などを書いてくれました。今からそれに返信を書きます)
 

2015年

震災から1年くらい経ったあと、携帯電話の機種変をしようと、その携帯の中にある写真の整理をしていときの話です。ある1枚の写真が目に留まりました。
 
2011年3月11日、14時40分の写真でした。
 
写真には、当時生後4カ月のおいっ子が写っていました。その日は実家の仙台に帰っていて、妹が子どもを連れて遊びに来ていました。子どもをあやしたり、世間話をしたり、子どもの写真を撮ったりしていた、その6分後、あの地震は起こりました。
 
先生は、長い地震の揺れのなか、おいっ子のベビーカーをずっと必死で抑えていました。その写真を撮ったとき、まさかその6分後にそんなことがあるなんて、夢にも思っていませんでした。
 
でも同時に、まさかその4年後に、こうやって、自分が福島県いわき市の中学校で数学の先生をやっているとも思っていませんでした。
 
2011年の当時、先生は大学院生として、大学の先生になるための勉強をしていました。4月から神奈川県の中学校で1年契約の教師として働くことにはなっていましたが、1年経ったらまた大学の先生を目指して勉強をはじめようと、震災までは考えていたんです。
 
でも、震災が起きて、いろんなことを考えながら、いろんな人や出来事に触れたことで、今こうやって福島県の中学校で先生をやっています。
 
きっかけは大きく2つありました。
1つめは、すごい人に出会えたことです。
高校の先輩で、被災地のガソリン不足の場所に、自分で買い付けたガソリンを無償で届けていた人がいました。自分よりたった5歳上の人が、そんなにすごい行動力で人を助けていることを目の当たりにして、自分も、人が困ったときに全力で人助けができる人間になりたい、そして、そのときのために自分の力を磨いておきたいと心から思いました。
 
2つめは、あるニュースを見たことです。
震災直後の3月14日、三陸海岸沿いの、ある中学校の卒業式がニュースになっていました。その中学校ももちろん被災していましたが、どうにか卒業式だけはということで何とか開催にこぎつけたとの説明を覚えています。
 
その卒業式中に、担任の先生が卒業生に語りかけていた言葉が、今も忘れられません。
「今、この地域は大変な状況になっている。だけど、そのときに卒業をする君たちは地域の希望だ。この地域を支えるために、どうか自分の力をつけていってほしい」
その言葉と、先輩の存在、そして自分が4月から中学教師になるという事実が、自分の中でぴたっと重なり、
『被災した地域で中学校の先生になる』という新たな目標が生まれたのでした。
 
震災では、2万人以上の方が亡くなりました。震災関連死といって、今でも震災の影響で亡くなっている方もいます。
 
日本も震災を機に歴史が変わりました。福島県ももちろん大きな影響を受けましたし、いわき市も同じです。
 
震災が、「無ければよかった」ことであることは間違いないと思います。
でも、だからと言って震災を「無かったこと」にはできません。
残念ながら。
 
震災を「無かったこと」にできないのであれば、私たちに必要なのは、「その震災がもたらした、ちょっとでも良かった変化」に目を向けていくことではないでしょうか。
 
震災があったからこそ気づいたこと、学んだこと、出会えた人、いろいろあると思います。先生にもそれはたくさんありますし、先生と皆さんが出会えたことも、その1つだと思っています。
 
3月11日は、そういったことを思い返す日にするのも、いいことなのかもしれません。
 
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今日は偶然、僕が担当している1・2年生すべてのクラスで授業がある日だったので、同じ話を、違ったテンポと表情で、4つの学級にしました。そのうち何人が今日の話を覚えているかは分からないけれど、これが少しでも次代の福島の種になればいいなと思っています。