旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

《2014年の記録》2014年3月11日に、2011年3月12日のことを。

この投稿は、2014年の3月11日にFacebook上に投稿した内容を保存用に転載したものです。当時の僕は、2013年4月から南相馬市の公立中学校で働いており、その年の福島県教員採用試験に合格、4月からの新しい勤務地の通知を待っている身でした。今からお読みいただく方は、そちらも念頭においていただけると幸いです。

昨年の今日、「2011年の3月11日と、これからの3月11日」と題した文章をfacebookにあげました。

自分がその日に何を感じて、その日以来何を考えていて、それが今にどうつながっていて、それと今後どう向き合っていきたいのか。そんなことをまとめたところ、いろいろな方面の方から驚くほど多くの反応をいただくことができました。

(※編集注:ここで述べられている記事はこちら)

traveling-teacher.hatenablog.jp

それに乗じるわけではないのですが、今年は、3月11日のこの日に「2011年3月12日」のことを書こうと思いました。なぜその日を選んだかも含め、現在の僕が書けることはすべて書き尽くしましたので、お時間をいただければ幸いです。

 

被災の混乱の渦中にあったあの時期を思い出したとき、いちばん恐ろしく、不安で、多くのことから逃げだしたかったのは3月11日から12日にかけての夜に間違いありません。

11日の夕方、震度4~5の余震が断続的に起こるなか、日が沈んでも街灯も点かない八木山を、お見舞いに来ていた家族がぽつぽつと帰っていったとき、病院に残された僕にあったのは「先の見えない暗さ」としか言えない感覚でした。
(その日、僕がなぜ病院にいたのかは、昨年の文章をご参照ください)

 夕食代わりに病院から配給された缶詰めのパンとミネラルウォーターには手を付けず、何かあったときのためにとめぼしい荷物はすべてナップザックにまとめ、車椅子に乗りながら、面会用ロビーにただ佇んでいました。数時間前まで家族親戚が集まり和気あいあいと過ごしていたロビーは、椅子もテーブルも壁に寄せられ、地震で倒れた仕切りや床に落ちた時計も元に戻されないまま。そんな異様な雰囲気のもと、ロビーは外の暗闇に染まり、ただナースステーションのほのかな明かりが一部分を照らしているだけでした。病院の外では、地震後に降り出した季節外れの雪が吹雪となっていました。

夜はずっと面会ロビーで過ごすつもりでしたが、ほかの病室に携帯テレビを持ってきている方がいることを聞き、深夜、その方の部屋に向かいました。

テレビの中では、「壊滅的被害」「沿岸に数百人の遺体」という耳慣れない表現と、聞き慣れた地元の海岸の名前、そして見たこともない津波の映像が延々と流れていました。何度も何度も同じ内容が流れているのに、そのたびに新しい衝撃を受け、何も信じられず、ただぼうっと聞いていることしかできませんでした。

地元仙台そして東北全体が、運命の大きな渦に呑まれていくという強烈なイメージに襲われながら、一方で、夢であってほしい、夢に違いない、現実なわけがない、という逃避本能がフル回転していたのを覚えています。

 

その日の夜、どこでどうやって寝付き、次の日の朝はどうやって起きたのかはまったく覚えていません(結局眠らなかったような気もします)。ただ、3月12日の朝が、外に積もった雪と携帯テレビのニュース、そして寒々しい面会ロビーを映し出すことで、「夢ではないか」という儚い希望はついえ、3月12日が前日から続く長い運命の最初の1日だということを僕に悟らせたのでした。

午前中の病院では、震災対応の体制が着々と進んでいました。全国の系列病院からヘリで食糧が運ばれ、非常用電源の燃料も補給、1階には緊急外来用の診療場所が特設されました。平常時よりかなり多くの医師・看護師があくせくと働いているなか、ただ茫然と車椅子の上で日中を過ごすしかなかった僕は(入院患者という身分なので仕方のないことではありますが)、「大事なときに、動きたいけれど動けない」ことのつらさ・惨めさ・悔しさ――などでは言いきれない感情――を初めて実感するのでした。
(その惨めな感情はそれから何カ月もの間ただただ蓄積していくのですが、逆にその感情が、以降の僕の原動力のほとんどを占めることになります)

 

その日の午後には、災害時の特別設定により病院の公衆電話が無料で使用できるようになりました。電波の混雑のせいかausoftbankの携帯電話には繋がらなかったものの、docomoの携帯電話には連絡を入れることができ、東京に住む友人に無事を伝えることができました。その友人に、受信できなかった携帯メールをパソコンから確認してもらい代わりに返信をしてもらったり、SNSへの代筆で外部に安否を伝えてもらったりすることで、僕は初めて被災地の「外部」と繋がることができたのでした。そしてそのことで僕は、大きな安堵を得られると同時に、自分がいま被災地の「内部」にいるのだということをひどく実感したのです。

特に、福井県に住む姉が友人の代筆したメールを読み大きな安心のメッセージを返してくれたこと、そして首都圏に住む多くの友人・知人が僕の生存を喜んでくれたことは、今でも強く印象に残っています。「生きていてよかった」「無事でよかった」といった言葉、逆に言えば自分の生存・無事が疑われていたことを表す数々の言葉は、前日自分が地震のなかで直感した「自分はもう死んだ!!」という身体の警報と呼応し、深く心に突き刺さったからです。

 

そしてその日の夜、僕は震災後はじめての食事をとり(万一を考え、病院から支給された食事には何も手をつけていませんでした)、並ぶ人がすっかりいなくなった面会ロビーの公衆電話で友人とその日何度目かの電話をしたあと、2日ぶりに自室に戻り、ベッドで寝たのでした。

自室に戻る際、廊下のソファーに見知らぬ家族が寝ていました。その家族が、津波で家を流されたのであろうことに気付くのは、自分の心が平常に戻る、もっとずっと後のことでした。

震災の恐怖に芯から怯え、それが夢ではないことに絶望を覚えながらも、この運命を受け入れるための準備をはじめ、それに失敗し、自分の非力さに心の底から落胆し、周囲の安堵になごまされ、それでもなお死の恐怖がすぐ隣にあった、3月12日。

 

「被災者」として「被災地」としての“日常”の、最初の1日であった3月12日。

正から負、負から正へのあまりにも大きな感情の浮き沈みと、その根底を流れる恐怖への対処が追い付かず、何をどう考え・感じればいいのか分からなくなった最初の1日。

この日に得られた感情は、今でも自分の中にごろごろと残っています。消化はまだされていませんが、3年前に比べれば、たしかに自分の身体の一部と言えるようになってきた気がしています。

 

2年前、
2012年3月11日には、2011年3月10日の出来事を考えていました。その日を思い出したかったからです。

 

1年前、
2013年3月11日には、2011年3月11日の出来事を考えていました。その日を振り返りたかったからです。

 

今日、
2014年3月11日には、2011年3月12日の出来事を考えることにします。その日を原点として確認したいからです。

長文にお付き合いいただきありがとうございました。