旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

《2013年の記録》2011年の3月11日と、これからの3月11日

この投稿は、2013年の3月11日にFacebook上に投稿した内容を保存用に転載したものです。当時の僕は、2013年4月から南相馬市の公立中学校で働くことが決まっていました。今からお読みいただく方は、そちらも念頭においていただけると幸いです。

 

3月11日。今後この日が暇になることもあんまりなさそうなので、2011年3月11日の出来事と、これからの3月11日に向けて、ちょっとまとまった文章を書いておこうと思いました。

その日は、実家・仙台の病院で入院していました。2007年の5月に酔った勢いで友だちに絡み、そこで膝を痛めていたんですが、2010年の10月くらいに実は膝の靭帯が切れていたことが判明。それなら大学院が春休みに入る2011年2月下旬以降に手術・入院をしましょうということで、実家近くの山の中腹にある総合病院にお世話になっていました。

2011年2月19日、当時申し込んでいたNPOの教師派遣プログラムの最終選考が終わってすぐに、仙台に帰省、入院しました。期間は3月15日まで。

 

仙台に帰っていちばんに思ったのは、『仙台ってこんなに地震が多いところだったっけ?』ということ。病院のベッドで横になっていることが多いため、震度1程度の小さな地震が1日に何度も起こっていることに敏感に気づき、どことない不安を覚えていました。しかし不安と言っても大きなものではなく、なんだか不気味だな、という程度の感想でしかなかったのですが(その連続地震が、「スロースリップ」という大地震の予兆であったことを知るのはずっと後の話です)。

ただその「不気味さ」は強く感覚に残っていました。手術の担当医が、手術内容の事前説明のときに「もし手術中に宮城県沖地震が来たら…」という過程で非常事態時の対応を説明してくださったんですが、普段だったら冗談だと思えるようなその話も、妙に真剣になって聞いていたのを覚えています。

 

 2011年3月11日は、お見舞いの多い日でした。妊娠中の姉が僕が入院していたのと同じ病院で定期健診を受ける日でもあり、それに母が付き添うということで、それならついでにと妹も生後4カ月の甥を連れて来院、偶然時間のあった叔母も一緒に、家族親戚一同が会していました。甥を抱いてあやしたり、泣かれたり、写真を撮ったりと、面会スペースで団欒しながら「あの日」について話していました。

 「あの日」とは、その2日前、2011年3月9日のこと。その日、宮城県を中心に最大震度5弱の「大きな」地震があり、その余震とみられる地震も何度か続いていました。「あの日はどこにいたか」「みんな無事だったか」「家の中は大丈夫だったか」「そういえば最近小さな地震が続いてたよね」など、その数十分後に起こることをまったく予想せず、終わった地震の話を、日常のちょっとした事件として話題にしていたのです。

(それから何カ月もの間、そのときと同じ話題がまったく違う神妙さで語られることになるなんて、今でも信じられません)

  

2時46分。

「え?」と疑いたくなる大きな揺れが来ます。普段僕は、地震が来ると初期微動継続時間を測って震源の位置を探ろうとするのですが、なぜかその地震は初期微動がどれだか分からなくて(たぶん初期微動でさえもあまりにも大きかったのと、震源域が広かったことによる現象だと思います)、揺れの大きさそのものよりも、その理論との不一致性に恐ろしさを覚えていました。そして、その揺れは何分間も続きました。後に見た記録によると、少しの間をおいた2つの揺れが、計5分間も続いていたようです。

1回目の揺れは、甥の乗るベビーカーが大きく揺れて(病院で借りたベビーカーにはブレーキがついていませんでした)、それを妹と両方から抑えるように止めるのに精一杯でした。少しおさまってはまた強くなる揺れに、ベビーカーをぐっと抑えながら耐えていました。

1回目の揺れが終わり、妹が泣きそうになりながら甥をベビーカーから取り出しました。よく分からないしやたら大きい地震だったけど終わってよかった、2日前の地震よりもずっと大きかったんじゃないか、なんて考えていたら、またすぐに2回目の揺れが始まりました。

2回目の揺れの最中は、比較的冷静に考えを巡らせることができました。その病院は僕の生まれた病院でもあるので、築30年くらいは経っているであろうこと、今いるのは8階建の5階なので、上の階のモノが落ちてきても、下の階に落ちてしまっても、まず助からないであろうこと、病院が建っている場所は比較的堅い岩盤の上なので、たぶんほかの場所はもっと揺れていて、そうすると火災などの二次災害が心配であること、病院の非常口はすべり台のようになっているので、松葉杖が必要な身でもなんとかなりそうだということ。そして、その思考とは別の回路では、感情とも感覚とも違う、本能とでも呼ぶしかないような意識で『いま、自分は死んだ!』という警告が身体を巡っていたのです。

(その警告があまりにも強烈だったからなのか、今でも自分はこのときに死んでいるんじゃないかという錯覚を覚えます)

 

揺れがおさまったことに気がつくと、電気も水道も止まっていました(病院周辺の地域は復旧まで1カ月以上かかりました)。まず病院の窓から近隣に火の手が上がっていないことを確認し、自分の状態とともにTwitterで第一報を入れました(携帯で通話はできませんでしたが、電波は地震発生後30分くらいは入っていたので、ネットを使うことはできました)。

地震直後の様子でいちばん怖かったのは、急に雪が降り出したことでした。そもそも仙台では3月に雪が降ることはほとんどありません。それなのに、さっきまで快晴だった空が急に曇りはじめ、予報でもまったく出ていなかった雪が降っているのが怖くて仕方ありませんでした。さっきまでの大きな揺れの余韻が残り、なおも余震が続くなか、信号機もついていない街のなかに降る雪。それは、静かにこの世の終わりを告げているような、そんな光景でした。

外の様子が少し落ち着いた頃に病院の人に連れられて母も姉も妹も叔母も帰っていき、入れ替わるように病室の隣のベッドにいた中学生の母親が入ってきました。そして、この地震マグニチュードが8.8と発表されたこと、それが国内観測史上最大のものであること、沿岸部は津波で大変な被害にあったことを初めて聞かされたのです。

病院に非常用電源はありましたが、病室等では基本的に電気を使えないため、お年寄りの方の持ってきていた携帯テレビとラジオが情報源でした。深夜の病室で、ラジオやテレビで繰り返される「壊滅的被害」「沿岸に数百人の遺体」といった、およそ報道で出てくるような言葉ではない情報を、ただただ聞いているしかありませんでした。『夢ではないか』という考えが何度もよぎりましたし、今でもたまにそう思いますが、これが夢であったことは、この2年間、一度もありませんでした。

僕の3月11日の体験はひとまずここまでにしておきます。

僕よりもっとつらい経験をされた方や、その後の影響が大きかった人ならば山ほどいますし、僕が赴任する中学校では生徒も教員も全員がその条件に当てはまることでしょう。なのでこれは稀有な「被災体験」などではなく、数ある「2011年3月11日の出来事」として捉えていただけると幸いです。

2011年3月11日は自分にとって忘れられない日です。初めて自分の死を身体が感じ、世界の終わりを直観し、もっとも大きな不安を抱えて過ごし、今でも現実かどうかが分からない、そんな日です。トラウマ、と言ってもいいかもしれません。

しかし同時に、その後の僕の原点にもなっています。赴任場所として福島県を選んだことだけでなく、子どもによりよい未来をつくってもらうための基礎、という教育の視点も3月11日を経験しなかったら生まれなかったように思っています。

今日はそんな複雑な感情を抱きながら、あれから2年経って進路が大きく変わった自分を振り返りました。とりあえず震災3年目となる今年1年を精一杯すごし、1年後にまたこの複雑な感情を開けることを目標にしていきます。そのときにまた新たなことが発見できてるといいな、と思いながら。

 

長文失礼いたしました。