《2014年と2015年の記録》「東日本大震災」について、僕が福島の子どもたちに語ったこと。
2014年
- 2011年3月11日時点では、僕はまだ教員ではなく、教員をずっと続けるとは思っていなかったこと
- 震災後、偶然見たテレビで映し出された中学校の卒業式のニュースが、今でも頭から離れないこと
- そのニュースが、自分の「被災地における人材育成」という志向の出発点となっていること
- 2012年3月11日、黙祷をしようとしない友人に激怒したこと
- しかしそのような「震災の風化」が被災地以外の地域では着々と進んでいること
- だからこそ、被災地に住む僕たちは震災のことを発信しないといけないし、今の中学生世代はそれができる最後の世代であること
2015年
《2014年の記録》2014年3月11日に、2011年3月12日のことを。
この投稿は、2014年の3月11日にFacebook上に投稿した内容を保存用に転載したものです。当時の僕は、2013年4月から南相馬市の公立中学校で働いており、その年の福島県教員採用試験に合格、4月からの新しい勤務地の通知を待っている身でした。今からお読みいただく方は、そちらも念頭においていただけると幸いです。
昨年の今日、「2011年の3月11日と、これからの3月11日」と題した文章をfacebookにあげました。
自分がその日に何を感じて、その日以来何を考えていて、それが今にどうつながっていて、それと今後どう向き合っていきたいのか。そんなことをまとめたところ、いろいろな方面の方から驚くほど多くの反応をいただくことができました。
(※編集注:ここで述べられている記事はこちら)
traveling-teacher.hatenablog.jp
それに乗じるわけではないのですが、今年は、3月11日のこの日に「2011年3月12日」のことを書こうと思いました。なぜその日を選んだかも含め、現在の僕が書けることはすべて書き尽くしましたので、お時間をいただければ幸いです。
“生徒の主体性を育てる授業”という〈矛盾〉への向き合い方、あるいはスキルとマインドの両輪について
数カ月前、「“生徒の主体性を育てる授業”をするにはどうしたら良いと思いますか?」という質問を受けてから、ずっと考えていた。
「そもそも主体性とは?」という話をしていると本題に入れなくなってしまうので、とりあえず国語辞典を借りて「主体性」を「自分の意志・判断で行動しようとする態度」のこととして話を進めていく。(主体性(しゅたいせい)の意味や使い方 Weblio辞書)
いちばん大事なのは、「授業(業を授ける)」という行為と「主体性(自分の意志・判断で行動しようとする態度)を育てる」行為はほとんど相反しているという前提だ。
「授業」が「業を授ける」場である限り、生徒は「授けられる」客体であって主体ではない。その中で“主体性を育てる”とはどういうことなのか。〈矛盾〉と言うと大袈裟だけれど、“生徒の主体性を育てる授業”の実現にはそれくらいの高い壁がある。
もちろん僕もまだ探究中なのだけど、“生徒の主体性を育てる授業”のために、僕には2つの提案がある。
1つ目は、授業の進め方に少しずつ生徒の意志・判断を取り入れていくこと。
もう1つは教員が生徒を見る〈目〉を変えていくことだ。
以下では、それらについて(少々長くなるが)述べていきたい。
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一つ目は具体的な手法についてだ。
「授業の進め方に生徒の意志・判断を取り入れる」とはどういうことか。
僕は「すべてのプリントを全員に配付するのをやめることから始めてください」と言っている。
そもそも授業の中で確実に全員に配らなければならないプリントなんて半分以下だ(少なくとも僕の場合は)。
全員に配らなくても構わないプリント(参考資料や補充問題など)を作ったときは、
「このプリント、○○について書いてあって、△△な人に使ってほしいと思って準備したんだけど、要る人は手をあげてくれますか?」
と言って、手をあげた生徒にしか渡さない。
たったこれだけだが、全員に強制的にプリントが配付される場合と比べて、生徒の「自分の意志・判断で行動しようとする態度」を刺激するきっかけにはなる。
『そんなことでは誰もプリントをもらわなくなるのでは?』
という心配の声があがりそうだが、何のことはない。そういう教員が想像するよりは生徒たちも手をあげるものだし、手すらあげない生徒たちは今までもプリントをもらっても活用しなかった生徒たちなので、正直大差はない。
むしろ、一応手はあげてみたものの意欲はさほど高くない生徒たちが「せっかく手をあげてもらったプリントだから」と普段以上に良い取り組みをすることも多い。
実際、ある学校で全員に配付したものの不人気極まりなかったプリントを、別の学校で希望者配付に切り替えたところ、逆に大人気のプリントになったことがある。
そのプリントは比較的高難易度だったので、「難しい問題が否応なく配られる」というマイナスイメージから「難しい問題を自分から手をあげて先生にもらった」というプラスイメージに転化させることができたのだと考えている。これも「自分から手をあげる」ことの1つの効果なのではないかと僕は思う。
とても細かいことだけど、「自分の意志・判断で行動しようとする態度」を授業の中で育てるには、とにかくこのように「生徒の意志・判断」を聞き取り、それに応じて行動(学習)できる環境を整えることがスタート地点になると思っている。
僕の場合はたとえば、
- 授業での説明を丁寧にする代わりに問題演習時間を短くするか、その逆か
- どんなプリントを作ってほしいか(補足説明中心/問題演習中心、ノートに貼る/ファイルに綴る、など)
- テスト範囲が終わったあとの授業をどういう形で行うか(復習授業を行うか、自習にするか、そのルールはどうするか)
- テストの配点と問題数のバランスをどうするか(記述式問題を8点×5問にするか10点×4問にするか、など)
といった、教員として「本質的にはどちらでも構わない」と思っている事柄について生徒に意見を聞きつつ、それを採用するようにしている。
もちろん上記にあげた事柄に独自のこだわりや理論がある先生方もいるだろうし、生徒の意見に委ねたくない先生方もいることも想像がつく。
そういう方は、上記以外の部分を生徒に委ねればいいと僕は思っている。号令の有無でもいいし、スマホの使用でもいいし、小テストの頻度や範囲でもいいし、黒板を誰が消すかでもいいし、授業をやる教室でもいい。その先生が思っている「これ別にどっちでもいいよね?」というポイントを生徒に委ねて、それを採用してみることで、そこに生徒の意志・判断が入る余地が加わり、授業が少しだけ“生徒の主体性を育てる”場となる。
ちなみに僕はいま「教員が一斉授業をやるかどうか」すら生徒に委ねている。
参考:
教員一人ひとりが、自分の授業の形式をムリのない範囲で生徒に委ね、最低限その範囲内では生徒の決定を尊重すること。これが最初の提案である。
2つ目は、より根本的なマインドの問題となる。
生徒と日頃関わる中で、「授業内容への取組みの度合い・成果」だけでなく「主体的な判断でその行動をしていたか」を見るようにし、後者をより重いものとして捉えること。これが「生徒を見る〈目〉を変える」ということだ。
より具体的に・シンプルに書こう。
「授業内容への取組みの高さ」と「主体的な判断での行動かどうか」の2軸で考えると、生徒のパターンは以下の4つに分けられることになる。
取組み(高)
②│①
低──┼──主体性(高)
④│③
低
①授業内容への取組みが高く、その行動の判断に主体性(自分の意志・判断)がある生徒
②授業内容への取組みは高いが、その行動の判断に主体性がない生徒
③授業内容への取組みは低いが、その行動の判断に主体的がある生徒
④授業内容への取組みが低く、その行動の判断に主体性がない生徒
このうち、①がいちばん理想的な状態で、④がいちばん避けるべき状態であることにはほとんど異論はないだろう。
問題は、②と③の扱いだ。
多くの教員は②を③より高く評価し、細かな言動の節々にそのことをほのめかすことで、意識的にせよ無意識的にせよ②の生徒を増やしていると僕は思っている。
たぶん、多くの教員が学生時代に②の生徒だったことと関係しているのだろう。
授業を通して“生徒の主体性を育てる”ためには、少しずつでもその見る〈目〉を変えていく必要がある。
②の生徒と③の生徒がいるときに、まずはその ②>③ という気持ちを捨てて、②=③ に近づけること。
③の生徒に対する
「ほかにやりたいことがあっても今は○○の教科の時間なのだから大人しく○○の教科をしなさい」
というような声がけや、②の生徒に対する
「何の役に立つのかとかなんでやるのかとか考えてるヒマがあったら問題を解けるようになりなさい」
という声がけ、①の生徒に対する
「とりあえずこの問題でもやりなさい」
といった声がけをやめること。
さらに言うと、教員自身が③の生徒たちの「主体性の行き先」に興味を持ち、②の生徒たちの「主体性の種」を探ることで、④に近づくような声がけをすること。
見る〈目〉を変えると、日常的な言動が変わり、それがたとえ「授業」の場であっても“生徒の主体性を育てる”ことができるようになるのだと、僕は思っている。
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僕は一般に、授業に限らず教員の仕事の全体が「スキル(技術)」と「マインド(考え方)」の両輪によって成り立っているのだと考えている。
そしてその両輪を磨いていくことこそが“生徒の主体性を育てる授業”という〈矛盾〉のような要求への1つの回答になるのではないかと思う。
(おそらく幾分先進的な)勤務校のコロナ対応についての情報共有、あるいは「シン・ゴジラ」に学ぶ学校組織の緊急時対応
勤務校のコロナ対応について、「コロナが落ち着いたらまとめよう」なんてことを思っていたのだけど、どうやら「アフターコロナ」はまだまだずっと先らしい、と気づいた今、こうやって書き出しています。
「そちらの学校のコロナ対応はどんな感じですか?」
この質問はとても困る。
率直に言うと、学校単位の決定や分掌・担当単位での対応が多すぎて書ききれないしそもそも全部は思い出せない。だけど、全国のいろんな学校の対応を見聞きする中で、勤務校の動きが世間の中では相当先を行っているであろうことは分かってきた。
勤務校の対応の内容と履歴、そしてその背景にあった職員室内の動きなど、全国の困っている学校にとっての少しでも役に立てればと思い、まとめたのがこの記事である。
まずは対応の内容とその流れを(思い出せるだけ)まとめたい。
※ 個人の記憶を頼りにした、4月17日時点での情報です。誤りが見つかり次第、随時修正していきますのでご了承ください。
2月・3月
- ロシア・トルコからの留学生が早期帰国
- 島根県が全国の一斉休校要請を拒否
- 卒業式・卒業関連行事の縮小実施の決定(職員会議)
* 予餞会の縮小実施
* 卒業式の在校生不参加
* 花道の中止
* 卒寮式、卒塾式等の中止 - 「コロナ対応に伴うオンライン授業実施について」の提示・承認(職員会議)
* 島外出身生徒(島外生)が帰省先から帰島できなくなった場合を想定し、対象を島外生に限定
* 島外生の実家における通信環境調査を実施 - 4月の各種行事の見直し、授業でのグループワーク・ペアトーク禁止等を確認
4月1日〜10日
<7都府県に緊急事態宣言>
- 入学式のオンライン実施を決定(職員会議)
* YouTubeの非公開ライブ配信で実施
* 電話連絡(電話口でURLを伝える) - 島外生が島に入る際に、ホテルでの5日間の経過観察期間を設定することを決定(臨時職員会議)
* 新入生と在校生で来島日を別に設定(ホテルの定員内に収めるため)
* 経過観察期間中は、新入生は課題対応、2・3年生はオンライン対応(下記参照)とする
* ホテル代等の費用は自治体(海士町)負担
* 来島に不安がある生徒はGW後まで戻らないことも可
* 以上を各家庭に電話連絡
* 新入生向けの課題を作成
* 各種行事予定等の組み直し - 経過観察中の島外生(2・3年生)に対し、朝礼・授業をZoomでオンライン実施することを決定(職員朝礼)
* 3月職員会議での決定に伴い実施
* iPadへのZoomインストール
* オンライン授業時に使用する課題を作成
* 課題、iPad・Wi-Fi等の送付
* 生徒へのZoomレクチャー
* 教員へのZoomレクチャー - 経過観察中の健康観察方法、ホテルの部屋割、ホテル設備の使用ルール等の決定・周知(職員朝礼)
- 保護者連絡・生徒への課題配信にベネッセClassiを活用することを決定(職員会議)
* Classiは一昨年度より全校で導入済
4月10日〜17日
<島根県内で初の感染者を確認 → クラスター感染の疑い>
- 経過観察期間を5日間から10日間に延長させることを決定(臨時職員会議)
* 寮内の待機期間と合計して計約2週間は島民の方(島内生)と接しない体制へ
* 各家庭へ電話連絡
* 経過観察期間延長にともなう追加分の課題を作成、送付
* 各種行事予定等の組み直し
登校への不安がある島内生にもZoomでのオンライン朝礼・授業を開始
- Classiのシステムトラブルにより、連絡・課題配付を郵送に戻す
* 新入生のClassi使用は登校開始後から
- GWまで帰省を続けることを選択した島外生に、学校側での来島日を設定(運営委員会)
* 来島日より2週間の経過観察期間を経て、GW後から登校へ
* 各家庭へ電話連絡
- Zoomオンライン朝礼・授業の実施
* 授業内容はZoomでレコーディング
* 生徒からの質疑応答等の時間も確保
- 健康観察等で不安がある生徒への対応(随時)
* 診療所からの往診等実施
* 4月17日時点で大事に至る生徒はなし
<緊急事態宣言が全国に拡大>
- 4月20日〜5月6日までの臨時休校を決定(職員会議)
* 臨時休校中の課題を作成
* 各種行事予定等の組み直し
…
……
変更に次ぐ変更で、自分でも、何が決まって・何が起こったのか・逆に何を今後すべきなのかが混乱しているのだけど、そんな混乱こそがこのコロナ対応の本質で、冷静になったら逆に分からなくなってしまうこともあるような、そんな気がしていたり。
ただ、結果としてZoomでのオンライン朝礼・授業が毎日実施できていることだとか、全国から集まる生徒たちを極力安全な形で島に戻すための仕組みだとか、県内や国内の状況が変わった際の即座の対応だとか、振り返って見ると多くのことを実現できているのは確かで、それがなかなか実行できない学校が全国に多くあるなか、勤務校や学校のある地域(隠岐島前)の底力を強く感じている。
___
では、上の対応を行っていた際(現在進行形だけれど)、勤務校の職員室はどんな雰囲気だったのか。
一言で表すと、「シン・ゴジラ」だ。
最近ひさしぶりに(何十回目かの)シン・ゴジラを観て、あ、この映画は、新コロナ対応の勤務校を予言していたんじゃないか、というか、想定外の社会混乱にたいする対応の仕方の一種の「答え」が描かれているんじゃないかと、ずんずんと考えている。
思うに、勤務校のコロナ対応と「シン・ゴジラ」には、重なる点が大きく2つある。
「形式的な会議は極力排除したいが、会議を開かないと動けないことが多すぎる」「効率は悪いが、それが文書主義だ。民主主義の根幹だよ」
まずは会議。
上で挙げた決定がなされるたびに行われる、緊急の職員会議・職員打合せの数々。紛糾する場面こそ少ないものの、その後に影響を及ぼしそうな決定や報告が淡々と行われる。
もともと勤務校は会議体が多くて、小さな議題も会議にかけるので、会議に割かれる時間がとても長い。平常時は正直そこに不満を感じていたのだけど、コロナ対応が始まって以来、それに大いに助けられている。
会議の場を経た全体周知と、詳細を書いた文書の配付、これがないと「いまどのような前提で動いているのか」が分からず、余計な仕事ややり取りが発生してしまう(実際、小さな混乱もいくつかあった)。
緊急時の対応には想定外がつきものである。だからこそ「何を正とするか」という共通認識がないと判断がつかなくなる。
今まで嫌いだったけれど、文書主義、捨てたものではない。映画のこのシーンの捉え方も、僕の中で一変した。
「そもそも出世に無縁な霞ヶ関のはぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児そういった人間の集まりだ。気にせず好きにやってくれ」
そして巨災対。
勤務校には今年度から「魅力化チーム」という校務分掌ができた。そのチームには「魅力化スタッフ」と呼ばれる通常の教員ではない(やや特殊な経歴の)スタッフが配置されており、業務内容は学校を魅力的にするための方策を立案・実施すること。…なのだが、今回はそのチームの方々の動きが巨災対そのものだった。
オンライン授業の実施提案、生徒へのネット環境調査、ネット環境のない生徒へのiPad・Wi-Fi等の送付、経過観察を行うホテルとの連絡、生徒や先生方へのZoomレクチャーなどなど、コロナ対応のキーとなる業務は魅力化チームがほぼ一手に引き受けていた。
「魅力化スタッフ」自体は、勤務校に何年も前からあった制度だ。だれど、これまでの魅力化スタッフは各校務分掌の所属で、魅力化のための仕事以外にも多くの担当が割り当たっていた。それを今年度から新たに「魅力化チーム」として集約したことが、今回の対応の大きなポイントになったのだと思う。
魅力化チームは決して巨災対のような「一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児そういった人間の集まり」ではないけれど、校務分掌という縦割りの学校組織や、教員という立場ではできない仕事の最初の一歩を進めるにあたって、魅力化チームの貢献は絶大だった。
「それ、どの役所に言ったんですか?」
という映画の中のセリフに表れるように、縦割り組織は想定外の事態への対処は初動がどうしても遅くなる。魅力化チームは、大きな対応方針を作成して校務分掌に仕事を回す、という役割を担うことで、初動の速さと計画の遂行を両立させた。
Zoomでのオンライン授業などが好例だ。魅力化チームが原案と方針を立てて基本的な環境を整備する、それを受けて教務部が詳細な計画をつくり教員に提示する、最後に教員一人ひとりが授業をそれぞれの工夫で実際に実行する、という流れで、良い意味で「緊急対応」を「ルーティーン」へと変容させる業務フローができていた。
巨災対も「ゴジラを転倒させて血液凝固剤を飲ませ、ゴジラを凍結させる」という大きな方針を立てたのは彼らだけれど、血液凝固剤の成分検討や大量生産、そして実際の作戦実行はすべて現場に任せて行っている。
映画には描かれていないけれど、巨災対と現場の関係は、今回の魅力化チームと各分掌の関係と似ていたのではないか、と思う。
巨災対のメンバーはもともと各省庁の所属で、それぞれに強いコネがある。魅力化チームも、昨年度までの仕事の中で各分掌の役割や仕事の進め方などが理解できている。そのことが、現場の納得を瞬時に取り付け、即座に実行に移すという流れを生み出せたのではないか。
「すごい…。まるで進化だ…」
コロナ対応はまだ終わっていない。
昨日と今日で、勤務校の対応もまた新たな状況へと変化した。
それも、今週1週間の動きを無にするくらいの大きな変化。
…だけど、今の勤務校の組織の形なら、何とかなるだろう、何とかやってやろう、と思えるから不思議だ。
「気落ちは不要。生徒を守るのが我々の仕事だ。再開だけが華じゃない。安全の確保を急がせろ」
「グループワーク、ペアトーク禁止令」下での授業について、あるいは新しい対話型授業の可能性
勤務校で「授業中のグループワーク、ペアトーク等禁止令」が出た。
まあ、このご時世で当然と言えば当然なのだけど、ここ数年間「いかに“教師主導の学び”を脱するか」ということを考えながら授業をしていた身としては
『ちょっと、それって授業を何年分元に戻さなきゃいけないの…?』
と、なかなか気持ちがついていかなかった。
多少大げさかもしれないけれど、翼をもがれたような、そんな感じ。
あんなに大空を飛べていたのに。また地上からやり直しかよ。
……というのが約2週間前のこと。
勤務校では本格的な授業開始が明日なのだけど、いま僕はどちらかというと「新しい対話型授業」の可能性に、むしろわくわくしている。
学校が禁止したのは、「グループワーク、ペアトーク等」であって、「主体的・対話的で深い学び」そのものではないはずだ。
僕の目指している「自由で、自然で、自発的な学び」だって、もちろん禁止されていない。
禁止されたのが「手段」なら、別の「手段」を考えればいい。試せばいい。そしてみんなであーだこーだと言いながら改善すればいい。それだけの話だ。
むしろこの状況下、生徒たちは「新しくこんな方法を考えているんだけど」と説明すれば「なんで今までの方法を変えるの?」とはならないはずだ。なんだチャンスじゃないか。
……なんてことを考えていたら、いろんなアイディアが出てくるようになったので、ぜひこれはアイディアをブログで公開してみて、その結果をまたブログで発信してみて、どんどんブラッシュアップしていきたい、と思うにいたった。
ということで、以下は僕なりの「コロナ環境下でもできる『主体的・対話的で深い学び』の授業方法案」である。
ちなみに、この授業は何度も言うようだが未実施なので、実際にどのようになるかはまだ分からない。
___
まず、状況を整理する。勤務校での授業の条件は以下の通り。
- グループワーク、ペアトークなど、生徒同士が集まり、対面で話をする活動をしてはならない
- 教員も、生徒に近づいて説明するような指導は避ける
- 生徒が意見を全体発表するのも(グレーゾーンだが)極力避ける
- 同じ授業をZOOMで遠隔授業として聞いている生徒もいるので、その生徒にも配慮する
この状況下で、どのように「生徒の対話」を引き出すか、が解くべき問題となる。
最初に考えたのは、むしろ発想を逆にしてみることだった。
「では、何ができるのか」
「どんな授業方法ならこの状況下でも可能なのか」
「できること」として思いついたのは、下記8つ
<教員側ができること>
- 教員が全体に向かって話しかける
- 教員がプリント等を配布・回収する
- 教員が板書をする
- 教員がPCの画面等を映し出す
- ZOOMで参加している生徒に、個別でメッセージを送る
<生徒側ができること>
- プリント等に自分の考えを記述する
- ハンドサインで自分が考えていることを表現する
- (ZOOMで参加している生徒)基本的に何でもOK
それぞれとても単純ではあるけれど、組み合わせるとたとえば以下のような授業プランが考えられる。
案① 紙上の対話型
教員主導で授業を行うが、5〜10分に一度程度、生徒からのコメントを回収し、それに沿って授業を進める
- 最初に、生徒全員に小さな紙(A4の8分の1くらい)を1人5枚ほど配る
- 教員は説明を短くするなど、授業の「区切り」を意識的につくる
- その「区切り」のたびに、生徒は小さい紙に授業への「質問・疑問」「コメント」などを書く
- 教員はそれを読み上げ、フィードバックをする形で授業を展開する
読みあげる際は、生徒の名前を言ってもいいが、たぶん言わないほうが生徒は積極的に記述をすると思う。記名させたい場合も、出席番号のみだと進行がスムーズ。
上手く回ってきたら、生徒の質問を取り上げ「これにみんなはどう説明する?」などの発問から回答を紙に書かせてもよい。
対話のツールは紙にこだわらず、簡単な質問に対しては「1だと思ったらグー、2だと思ったらパーを挙げて」のようなハンドサインも有効。普段、中学校や高校ではハンドサインを使わないことが多いのだけど、この状況下ならかえってやりやすい気がする。
案② ブレインライティング型
(たとえば調べ学習などで)仮想の「小グループ」を作り、筆談で意見を交換し合う形式
- 教員が授業の課題を提示する
- 最初にランダムに3〜4人のグループを決定する
- グループごとに1枚のプリントを配り、それを回しながら、プリント上で課題についての議論を行う
- たとえば
* プリントを記入し終えたら教員を呼び、次の人に回してもらう
* 自分のところにプリントが来たら、2分以内に何かしらの内容を書かなくてはならない
* 授業中に2回だけ『先生ターン』を使え、そのときは教員が質問へのヒントなどを書いてくれる
などのルールを定める - ルールに沿ってプリントを回していき、最後数分は授業の振り返りを行う
- その間に教員は各グループの紙を人数分コピーし、配布して終了
ルールは工夫次第でいろいろな方向にもっていけると思う。「グループを4人、1人あたりの時間を4分」にすれば、12分自分で考えたり調べたりして、4分アウトプット、という形で重めの調べ学習もできるし、逆にグループの人数を少なく、1人あたり時間を短くして、授業中にグループ変更も実施すれば(先生の運動量は増えるが)、通常のアクティブラーニング型にも近づけられる。
グループのランダム性は、通常のアクティブラーニングではなかなか実現できない要素なので、この形式のメリットともなる。グループはエクセルのランダム関数(RAND())などを使って作成すると便利。
慣れて来たらグループを匿名にし、誰が同じグループなのか分からないようにしてもおもしろそう。
ZOOMからの参加生徒には、プリントの内容を教室から画像で送信する。
案③ スモールティーチャー型
ZOOMで参加している生徒が「全員に分かる授業をする」ことを目標に教室全体で学習を進めていく形式
- ZOOMで参加している生徒には予習をしてきてもらう
- その予習内容をもとに、ZOOMから教室に向けて説明をしてもらう
- 教室からはハンドサインや紙に書いたコメントなどでZOOMの生徒にフィードバックする
- 教員も適宜会話に入り、教室全体で内容の理解が深まるようアシストをする
ZOOMでつながっている生徒は(ある意味)治外法権なので、いろんな役割を任せられる。たとえばインターネットでの調べものをZOOMの生徒にお願いする、などもおもしろい。
全体的に、教室で授業を受けている生徒よりもZOOM参加の生徒の方が集中力が保ちにくく、教員への質問もしにくいと思われるので、そのアンバランスを是正する方法でもある。
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とりあえず上記のような授業を試してみようと思っている。
不幸な外圧がきっかけではあるけれど、これらの授業形式で、今までには達成できなかったことも少なからず実現できるのではないかと思うし、その点に僕はわくわくしている。
報告は、また今度。
高校生のプロジェクトの“伴走”について(2020年2月現在) あるいは自分が受けてきた“伴走”について
この話題は2月の末に投稿したかったのだけど、いつの間にか新年度。
勤務校は3月は臨時休校もなく、学校業務も比較的安定していたのだけど、そういう時期よりも業務がばたばたしているときの方が執筆意欲が湧くから不思議だ。ということで、今回は生徒の「探究活動(プロジェクト学習)」と教員の関係について、2020年2月時点の僕の考えをまとめておきたい。
投稿しているのは4月だけれど、2月末に関わった大きなプロジェクトを経てまとまった考えで、さらにその背後には勤務校に赴任してから関わった数々のプロジェクトがあることを念頭にお読みいただきたい。
高校教員になってからというもの、生徒たちの「探究活動」やプロジェクトの“伴走”ということを多くやってきた。
“指導”ではなく、“先導”でもなく、“支援”ともちょっと違う“伴走”。
要するに、生徒のプロジェクトの目標に向かって一緒に走る、ということ。
…とまあ、簡単に言えばそうなんだけど、これが、本当に、とても難しい。
生徒のプロジェクトに対して、教員は何を・どのように“伴走”するべきか。
生徒の「探究活動(プロジェクト学習)」を非常に重視している勤務校において、それを僕は様々な機会で考えてきた。
もちろん、まだまだ分からないことはたくさんあるし、今「分かった」と思っていることを1年後にも同じように思っている保証もないのだけど、とりあえずの今の考えをまとめておきたい。
「問い」は大きく3つに分けられる。
- プロジェクトの“伴走”を行う目的はなにか
- 何を“伴走”するべきか
- どのように“伴走”するべきか
以下、これに従って考えを書いていく。
“伴走”を行う目的はなにか。
これに、僕は明確な答えを持っている。
「プロジェクトが終わったときに、生徒が『次のプロジェクト』を行いたいと思えるような状態にすること」
これが僕なりの「“伴走”の目的」である。
大事なのは、目的が
「プロジェクトを成功させること」でも
「プロジェクトを失敗させないこと」でもないこと、ましてや
「プロジェクトを“落とし所”へと導くこと」では絶対にないことだ。
当たり前だけれど、生徒たちにとって高校時代のプロジェクトや「探究学習」なんて長い人生のちっぽけな経験だ。正直、そこで成功しようが失敗しようが、その結果自体はどうだっていい。そのときのプロジェクトが大失敗に終わっても、次のプロジェクトでそれが改善できれば全然問題ないのだから。
だからこそ、プロジェクトが終わったとき、生徒に
『次のプロジェクトでは……』
と思わせることが、“伴走”者の第一の目的となるのだと思う。
もちろん、成功体験があった方が「次のプロジェクト」に向かう生徒もいれば、失敗をバネに「次のプロジェクト」に向かう生徒もいる。
『今回は先生に手伝ってもらって実現できたから、次回は先生なしでもできるようにしたい』と思う生徒もいるし、『先生が手出しばっかりしてきてつまらなかった。もうやりたくない』と思う生徒もいるだろう。
だから、同じ中身のプロジェクトでも“伴走”の仕方は当然変化する。
『どのような“伴走”をすれば、この生徒は「次のプロジェクト」に取りかかろうと思うのか』
それを常に自問自答しながら、生徒への声がけやサポート内容を柔軟に変化させていくのが、“伴走”者の勤めなのではないかと僕は思う。
では、その上で、何を“伴走”するべきか。
僕はこれをプロジェクトのフェーズで捉えるようにしている。
フェーズの分け方にはいろいろあるけれど、僕は大きく、以下の4つのフェーズで考えている。
- 0→1 のフェーズ:最初に企画を創出する
- 1→30 のフェーズ:とりあえず最低限の形にする
- 30→80 のフェーズ:ブラッシュアップを重ねていく
- 80→100 のフェーズ:より高みを目指していく
このうち、“伴走”者がプロジェクトに積極的に関わるべきなのは「1→30」と「80→100」のフェーズのみだと僕は思っている。
どうしても必要なときに「30→80」に多少手を貸すことはあってもいいかしれないけれど、少なくとも「0→1」には決して手を出してはいけない。
理由はなぜか。
まず、「0→1」や「30→80」に関わることは、「次のプロジェクト」への悪影響が大きくなりすぎると考えられる。
「0→1」への介入はプロジェクトを「生徒のもの」ではなくしてしまうし、「30→80」への介入はプロジェクトを自分の手で改善していく楽しみを生徒から奪ってしまうだろう。
大体の場合、プロジェクトの自分事感をいちばん生み出すのは「0→1」フェーズだし、プロジェクトがいちばん楽しいのは「30→80」のフェーズだ(もちろん例外はある)。
逆に「1→30」への関わりは生徒が「立ち直れないほどの失敗」をしてしまうリスクを減らすことができるし、「80→100」に関わることで生徒に「プロジェクトのさらなる高み」を感じさせることができる。
すべては、「生徒の『次のプロジェクト』のため」。
それが大原則なのだと僕は思う。
最後に、その内容を、どのように“伴走”すべきか。
これについては、上でも挙げたように“伴走”相手の生徒や集団の特性によって大きく変わっていく事柄なので、大きな指針というか、心構えのようなものを挙げるに留めておきたい。
私が思う、“伴走”者のやるべきことは以下の6点である。
- つねに相談できる物理的・心理的位置にいること
- 「落とし所」を考えず、本気になってプロジェクトのことを考えること
- 実際に動くのは手助けの声が出てからに限ること
- 「どのようにサポートするか」ではなく「どうやってジャマをしないか」を考えること
- 「提案」「アドバイス」以上のこと(特に「決定」)をしないこと
- 時には一人のプレイヤーとして動く覚悟を持っておくこと
このようにまとめてみると、“伴走”者には「プロジェクトを自分事化すること(1・2・6)」と「プロジェクトの進行を横で見守ること(3・4・5)」という、相反する二面性が求められるのだと思う。
上で述べたフェーズの話と絡めると「1→30」と「80→100」では「自分事化」が、「0→1」と「30→80」では「見守ること」が大事になるのだとも言えるかもしれない。
僕ももちろん例外ではないのだけれど、“伴走”者はそんなことを常に頭に置いておきたい。
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思い返すと、僕が勤務校に赴任した当初、僕がやっていた“伴走”は、上で挙げたような“伴走”とはほど遠いものだった。
だけどそういった“伴走”を続ける中で、根気強い生徒たちによって多くのことを教わることができたし、それに合わせて自分の考えも自然に変化していった。今の僕の授業スタイルも、そんな生徒たちとの「探究活動」の経験がなかったら生まれなかっただろうとも思っている。
「探究活動」やプロジェクトの“伴走”を振り返っていたら、自分の教員としての成長の横に、常に生徒たちが“伴走”してくれていたことに気づいた。