“生徒の主体性を育てる授業”という〈矛盾〉への向き合い方、あるいはスキルとマインドの両輪について
数カ月前、「“生徒の主体性を育てる授業”をするにはどうしたら良いと思いますか?」という質問を受けてから、ずっと考えていた。
「そもそも主体性とは?」という話をしていると本題に入れなくなってしまうので、とりあえず国語辞典を借りて「主体性」を「自分の意志・判断で行動しようとする態度」のこととして話を進めていく。(主体性(しゅたいせい)の意味や使い方 Weblio辞書)
いちばん大事なのは、「授業(業を授ける)」という行為と「主体性(自分の意志・判断で行動しようとする態度)を育てる」行為はほとんど相反しているという前提だ。
「授業」が「業を授ける」場である限り、生徒は「授けられる」客体であって主体ではない。その中で“主体性を育てる”とはどういうことなのか。〈矛盾〉と言うと大袈裟だけれど、“生徒の主体性を育てる授業”の実現にはそれくらいの高い壁がある。
もちろん僕もまだ探究中なのだけど、“生徒の主体性を育てる授業”のために、僕には2つの提案がある。
1つ目は、授業の進め方に少しずつ生徒の意志・判断を取り入れていくこと。
もう1つは教員が生徒を見る〈目〉を変えていくことだ。
以下では、それらについて(少々長くなるが)述べていきたい。
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一つ目は具体的な手法についてだ。
「授業の進め方に生徒の意志・判断を取り入れる」とはどういうことか。
僕は「すべてのプリントを全員に配付するのをやめることから始めてください」と言っている。
そもそも授業の中で確実に全員に配らなければならないプリントなんて半分以下だ(少なくとも僕の場合は)。
全員に配らなくても構わないプリント(参考資料や補充問題など)を作ったときは、
「このプリント、○○について書いてあって、△△な人に使ってほしいと思って準備したんだけど、要る人は手をあげてくれますか?」
と言って、手をあげた生徒にしか渡さない。
たったこれだけだが、全員に強制的にプリントが配付される場合と比べて、生徒の「自分の意志・判断で行動しようとする態度」を刺激するきっかけにはなる。
『そんなことでは誰もプリントをもらわなくなるのでは?』
という心配の声があがりそうだが、何のことはない。そういう教員が想像するよりは生徒たちも手をあげるものだし、手すらあげない生徒たちは今までもプリントをもらっても活用しなかった生徒たちなので、正直大差はない。
むしろ、一応手はあげてみたものの意欲はさほど高くない生徒たちが「せっかく手をあげてもらったプリントだから」と普段以上に良い取り組みをすることも多い。
実際、ある学校で全員に配付したものの不人気極まりなかったプリントを、別の学校で希望者配付に切り替えたところ、逆に大人気のプリントになったことがある。
そのプリントは比較的高難易度だったので、「難しい問題が否応なく配られる」というマイナスイメージから「難しい問題を自分から手をあげて先生にもらった」というプラスイメージに転化させることができたのだと考えている。これも「自分から手をあげる」ことの1つの効果なのではないかと僕は思う。
とても細かいことだけど、「自分の意志・判断で行動しようとする態度」を授業の中で育てるには、とにかくこのように「生徒の意志・判断」を聞き取り、それに応じて行動(学習)できる環境を整えることがスタート地点になると思っている。
僕の場合はたとえば、
- 授業での説明を丁寧にする代わりに問題演習時間を短くするか、その逆か
- どんなプリントを作ってほしいか(補足説明中心/問題演習中心、ノートに貼る/ファイルに綴る、など)
- テスト範囲が終わったあとの授業をどういう形で行うか(復習授業を行うか、自習にするか、そのルールはどうするか)
- テストの配点と問題数のバランスをどうするか(記述式問題を8点×5問にするか10点×4問にするか、など)
といった、教員として「本質的にはどちらでも構わない」と思っている事柄について生徒に意見を聞きつつ、それを採用するようにしている。
もちろん上記にあげた事柄に独自のこだわりや理論がある先生方もいるだろうし、生徒の意見に委ねたくない先生方もいることも想像がつく。
そういう方は、上記以外の部分を生徒に委ねればいいと僕は思っている。号令の有無でもいいし、スマホの使用でもいいし、小テストの頻度や範囲でもいいし、黒板を誰が消すかでもいいし、授業をやる教室でもいい。その先生が思っている「これ別にどっちでもいいよね?」というポイントを生徒に委ねて、それを採用してみることで、そこに生徒の意志・判断が入る余地が加わり、授業が少しだけ“生徒の主体性を育てる”場となる。
ちなみに僕はいま「教員が一斉授業をやるかどうか」すら生徒に委ねている。
参考:
教員一人ひとりが、自分の授業の形式をムリのない範囲で生徒に委ね、最低限その範囲内では生徒の決定を尊重すること。これが最初の提案である。
2つ目は、より根本的なマインドの問題となる。
生徒と日頃関わる中で、「授業内容への取組みの度合い・成果」だけでなく「主体的な判断でその行動をしていたか」を見るようにし、後者をより重いものとして捉えること。これが「生徒を見る〈目〉を変える」ということだ。
より具体的に・シンプルに書こう。
「授業内容への取組みの高さ」と「主体的な判断での行動かどうか」の2軸で考えると、生徒のパターンは以下の4つに分けられることになる。
取組み(高)
②│①
低──┼──主体性(高)
④│③
低
①授業内容への取組みが高く、その行動の判断に主体性(自分の意志・判断)がある生徒
②授業内容への取組みは高いが、その行動の判断に主体性がない生徒
③授業内容への取組みは低いが、その行動の判断に主体的がある生徒
④授業内容への取組みが低く、その行動の判断に主体性がない生徒
このうち、①がいちばん理想的な状態で、④がいちばん避けるべき状態であることにはほとんど異論はないだろう。
問題は、②と③の扱いだ。
多くの教員は②を③より高く評価し、細かな言動の節々にそのことをほのめかすことで、意識的にせよ無意識的にせよ②の生徒を増やしていると僕は思っている。
たぶん、多くの教員が学生時代に②の生徒だったことと関係しているのだろう。
授業を通して“生徒の主体性を育てる”ためには、少しずつでもその見る〈目〉を変えていく必要がある。
②の生徒と③の生徒がいるときに、まずはその ②>③ という気持ちを捨てて、②=③ に近づけること。
③の生徒に対する
「ほかにやりたいことがあっても今は○○の教科の時間なのだから大人しく○○の教科をしなさい」
というような声がけや、②の生徒に対する
「何の役に立つのかとかなんでやるのかとか考えてるヒマがあったら問題を解けるようになりなさい」
という声がけ、①の生徒に対する
「とりあえずこの問題でもやりなさい」
といった声がけをやめること。
さらに言うと、教員自身が③の生徒たちの「主体性の行き先」に興味を持ち、②の生徒たちの「主体性の種」を探ることで、④に近づくような声がけをすること。
見る〈目〉を変えると、日常的な言動が変わり、それがたとえ「授業」の場であっても“生徒の主体性を育てる”ことができるようになるのだと、僕は思っている。
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僕は一般に、授業に限らず教員の仕事の全体が「スキル(技術)」と「マインド(考え方)」の両輪によって成り立っているのだと考えている。
そしてその両輪を磨いていくことこそが“生徒の主体性を育てる授業”という〈矛盾〉のような要求への1つの回答になるのではないかと思う。