旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

教育における『自由』について、あるいは社会における『迷惑』について

私の父は大学で政治思想史を専門に教えている。年末年始に帰省したときに政治思想的な観点から教育を語り合う機会があったので、今回はそのときの会話を備忘的に記しておきたい。

なお、今回の内容は、教育哲学者・苫野一徳さんの著書を念頭においている。
ご興味のある方は参照してほしい。

勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

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教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

 

苫野さんの議論は明確だ。
いわく、教育とは「民主主義社会」を実現するためのものであり、そのために教育は他者や自分の自由を最大限尊重する態度、
つまり「自由の相互承認」の感度を育むことを目的としなければならない、と。
その意味で、たとえば旧来型の日本の「みんなで一緒に」という教育方法は、その原則に沿わないわけだから、積極的に打破されるべきものである、と。

ここまで私が説明すると、父は言う。
「そこで言う『自由』というのは、どこまでの『自由』なんだ?」
「その『自由』のラインによっては結論が大きく変わるんじゃないか?」と。

いわく、

  • 「『他者の自由』を相互に承認する」という議論を深めるには、「どこまでが『他者の自由』として承認されるべきか」という議論が必要になる
  • ヨーロッパで言う『他者の自由』は、J. S. ミルの影響が強い。簡単に言うなら「(直接的な暴力など)余程のことがないかぎりその人の自由を尊重すべき」。
  • 対して日本はその基準がより文脈的になりがちである。
  • 具体的には、日本においては「他者の迷惑にならない」というのがラインになることが多いのだが、そこが極めて難しい。
  • 日本で「この行為が他者の迷惑になっているか」を判断するには、周囲に目を向け観察し、基準をおもんぱかる必要があるからだ。
  • 「迷惑かどうかを周りに聞く」というような直接的な行動は、伝統的な日本の倫理観からはあまり推奨されない。「空気を察する」ことが大事なのだ。
  • だからこそ、日本の旧来型の教育では「『迷惑のライン』を察することができる」ことを重視することになる。それが「みんなで一緒に」の教育の根幹である。

なるほど、と思った。
たしかに、このように考えるといろいろと合点がいく。

  • 「人の迷惑にならない限り何をやってもいい」という言葉は多くの教員からも聞くのに、同じ教員が「授業中に堂々と寝る生徒は許せない」と言うのはなぜか 

「授業中に堂々と寝る生徒」は「教員の気分を害する」と言う意味で「迷惑」ということ

  • 「生徒の自由や自主性を尊重しましょう」と言う教員が、一方で制服の着方やスマホの使用ルールなどの細かな校則に敏感なのはなぜか

「見た目が悪い」ことや「校則を守らない」ことがその教員にとって「迷惑」であるから、それを侵す「自由」は与えられない、ということ

  • 「自由を履き違えるな」という言葉の指す「自由」とは何なのか

上述の(日本的な意味での)「迷惑」な行為を行わない限りの「自由」ということ

 

…実例は枚挙にいとまがない。
そしてここに、学校現場で教育の姿が変わらない理由のほとんどがあるような気がする。

だからこそ、教育の在り方を変えるためにはきっと、この「迷惑」の感覚の違いを対話で乗り越えていく必要がある。

  • どこまでが「迷惑」でないのか。どこからが「迷惑」なのか。
  • その基準はヨーロッパ由来の(J. S. ミル的な)ものと、日本の伝統的なものとのどちらをどの程度採用すべきか。
  • その基準は明示的であるべきか、暗黙的であるべきか。
  • 基準は確定的(定言命法)であるべきか、状態依存的(仮言命法)であるべきか。

「教育」を考えるために「自由」を考え、
「自由」を考えるために「迷惑」を考える。

これが今年の私の最先端である。

(あけましておめでとうございます)