旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

年度当初のクラスへの挨拶、あるいは自由と制限の境目について

遅ればせながら新年度。

散々希望を出していたのに今年度も僕は副担任で、もしかしたらもう担任を持つことがなくなるんじゃないかとハラハラしていたり、していなかったり。

ただ、今年度は職員室から図書準備室に机が移動し、学校図書館運営にも関われることになったので少しテンションが上がっております。(そもそも僕が国語科の教員免許を取得したのは、学校図書館に関わる立場に就きたいからというのが半分くらいの理由だったのです)

ということで、高校3年生の副担任。1学期の始業式後のホームルーム、最初の副担任挨拶で、たぶん史上最速なんじゃないかな、卒業式を想像して生徒の前で泣いていました。例の 催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもん です。

君らの副担任になるの、正直嫌だったんだ。

今まで2年間は、他学年の担当だったから、君らとは比較的ゆるめに、楽しい感じで接してきたけど、副担任になったらやっぱりちょっと細かく厳しくならないといけなくて、それが続けられないから、なんか嫌だなと思ったのが1つめの理由ね。

2つめの理由は、今まで2年間、君らとは毎日のように数学で顔を合わせていたり、部活で関わったりしただろ、それなんだ。

その上に副担任なんかもったら、この1年間で進路の相談を受けたり、AO入試とか推薦入試の指導をしたり、受験とか就職のサポートをしたり、いろいろすることになるじゃないですか。

そういうことをしたあとに、3月の卒業式で、僕がどんなに泣いてしまうか。もう、それを想像してるだけでも泣けてきてね。

てことで君らの副担任はとっても嫌なんだけど、1年後、最後に笑顔の涙で別れられるように、これから1年間、よろしくね。

まぁ相手が見知った仲だったからこその学級開きだったのだけど、それなりに僕の想いは伝わったのかなと思ったので良かったかな、と。

 

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さて。

今回は、そのあとに生徒に問いかけたメッセージが本題で。

僕は「自由」を追究した教育をしたいと思っているし、それなりに努力してきたつもりなのだけど、でもまだいまいち「自由」について分かっていないことがある、という話。

学校における「自由」とは何だろう。

それは、社会における「自由」とは同じものなのか、違うものなのか。違うとしたらなぜなのか。

学校ではすべての行為が「自由」なわけではない。たとえば「人をいじめる自由」や「人を傷つける自由」、「ルールを破る自由」は与えられない。

でも同時に「人を嫌いになる自由」や「もっとこうなってほしい、と人に言う自由」はあるし、「ルールの変更を提案する自由」もある。(ここらへんは法学的には「自由」ではなくて「権利」なのかもしれないけれど、そこはちょっと脇に置いておく)

「○○についての自由がある」というのは、「○○についてどのような決定をしても他者から制限されることがない」ということだ(と思う)。

そう考えたとき、学校で(あるいは社会で)守られるべき自由、制限されるべき自由とは何なのだろう。

たとえば「授業中に質問をする自由」は守られているようであまり守られていない(あまり何回も質問しすぎると「それはあとでね」と諭されたりする)し、「自分に合った方法で学習する自由」も守られていることはあまりない(授業中に音楽を聞きながら横になって学習するのは多くの場合許されない ※僕の授業では許しています)。

逆の例もある。「人をからかう自由」は生徒だけでなく教員が率先して行使していることすらあるし、「人に仕事や責任を押し付ける自由」が陰に陽に認められていることもある。

学校に本当に必要な「自由」とは何で、学校で制限されるべき「自由」は何なのか。なんとなくシンプルに一言で表せそうな直感はあるのだけど、まだ掴みきれずにいる。

たぶんそこを掴むには、「そもそも学校とは何を目指す場なのか」という基点が必要になる。そこまでは分かっている。

とりあえずこの1年をかけて、生徒たちともっとずっと対話していきたい。