入院中に感じたこと、あるいは生徒の多様性のための教員の多様性について
入院をして、先ほど退院した。
月曜から日曜までのほぼ1週間、病院のフロアの一部で生活しながら、手術とその後の治療に専念していた。手術直後は痛みがなかなか引かず、数日ほぼずっと寝ていたのだけど、それが落ち着いてからは比較的余裕も出てきて、本を読んだり映画を見たりネットでニュースを見たり「安静な生活」を送っていた。(関係各所へは多大な迷惑をおかけしました。反省しております)
入院中、気づいたことは看護師さんの仕事の仕方の多様性だった。
体温の測り方も、血圧の測り方も、点滴の落とし方も、食事の配膳の仕方も、患者さんへの声のかけ方も、夜勤での見回りの頻度も、一人ひとりが全部違って、でも患者さんにたいして真摯に接してくれていることが伝わって、それが妙に心地よかった。
もちろんそれは、困ることや戸惑うことも無くはない。僕も当初は一人ひとりの対応が違いに驚いたり疑問を感じたりしていたのだが、数日も経てば、それは些細な問題にすぎないんだな、ともすぐに思い直した。
『この人はどう来るんだろう』と思いながら看護師さんの行動を見つつ、ほかの看護師さんにはない部分を発見すると、そこにその看護師さんのこだわりが感じられて楽しいし、一人ひとりの看護師さんの良さも見えてくる。何より「型」にはまらずのびのびと仕事をしている雰囲気が感じられるのは「入院生活」という生活環境のストレスを和らげてくれて、それがすごく良かった。
(ここはもちろん、僕のケガが生死を争うようなものではなかったことだとか、看護師さんが皆さん十分にベテランだったことも関係していると思うので、以上はあくまで僕の感想である)
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教員はどうなんだろう。といつもながらに考えた。(ほとんど職業病だ)
教員は、生徒にたいして多様性をもって接することができているのだろうか。生徒に「自分らしく」「多様性を認め合えるように」と言う一方で、教員組織は教員一人ひとりの「自分らしさ」を尊重した、「多様性を認め合う」ものになっているのだろうか。
教員は何かと「対応を統一しましょう」「足並みをそろえましょう」「同じ目線で指導にあたりましょう」となりやすい。
もちろん、それが必要なこともある。成績のつけ方だとか、入試の運営だとか、主に「厳密な比較をする必要のある業務」では、対応の統一が必須要件になる。
だが、そのような業務は教員の業務全体のほんの一部分にすぎない。それ以外の業務において、今ほどの「対応の統一」や「目線合わせ」が本当に必須なのだろうか。
その統一により、僕が感じた「心地よさ」や「ストレスのない生活環境」の逆の現象が起こっていないと言い切れるのだろうか。そして何より、多様性のない教員集団に育てられて、生徒たちは多様性を尊重し合えるのだろうか。
以前は僕も「統一性」や「同調」を重視したものの見方をしていたのだけど、特に現任校に移って「多様性」と「調和」の共存の可能性を見出してからというもの、それを目指す教育の在り方について考えるようになった。
明日から現場復帰します。