旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

Clearing、あるいは過去の教育理念と訣別することについて

しばらく更新が止まっていた間に、勤務校の卒業式で多くの生徒と別れのメッセージを交わしたり、前任校の教え子に再会して思い出話や互いの現状報告に花を咲かせたりしていた。

僕は現任校に来てから特に、別れの時や区切りとなるタイミングには、「Clearing」という概念を大切にしている。「Clearing」とは自分の感情を「Clear」にすること、つまり「思っていたけど言えなかったこと」をしっかりと相手に伝えることだそうだ。

初めて聞いたとき、なんてステキな考え方なんだろうと思った。普段の生活の中では言えなかった感謝や謝罪や称賛の気持ちを、余すところなく伝え合うことは次のステップに進むための大きな原動力になるし、将来気持ちが弱ったときの支えにもなる。

「あの年の数学のクラス、最初はどよんとしてたけど、最後は雰囲気がすごく良くなったし、僕はあのクラスが大好きだったし、本当に楽しかった。僕を鍛えてくれてありがとう」
「みんなが授業でやっていたプロジェクトのグループ、小学校・中学校から一緒に過ごしてきた仲間たちのグループだったけど、そんなみんなの仲の良さが見ていてうらやましかったし、かっこよかった。みんなの最後のプロジェクトで仲間に入れてくれてありがとう」
「みんながつくりあげたあのチームは、伝説級のチームだったと思うよ。最後に君の大学受験にも関われて嬉しかった。4月からも応援してるよ」
「次に会うときは、一緒におもしろいことしようぜ。こっちも鍛えて待ってるからさ」
「校舎内で見るときはだいたいいつも笑顔だったよね笑。あんまり関わりはなかったけど、楽しい3年間だったんだなってことは分かるよ。卒業おめでとう」
「2年生のときの2学期の中間テスト、すごくがんばってくれて嬉しかったよ。…でもそのときに上手くそのことが表現できなくて、無愛想になっちゃったことをずっと後悔してたんだ。…ごめん」
「君のリーダーシップは本当にすごいと思う。がんばってね」
「受験のときの志望理由書、大変だったね。でも、あれがすごく楽しかったし、僕自身の勉強にもなったよ。合格おめでとう」
「あんまり話してくれなかったし、話しても冷たい反応が多かったけどさ、僕は君のキャラ、結構好きだよ笑」
「数学の二次試験対策、毎日ずっとやってたけどさ、あれ、楽しかったんだよね。あの時間で相当力がついたと思うし、少なくとも僕にとってはあの時間がとてもいい思い出だよ。ありがとね」

卒業式後のお見送りでは、こんな内容を生徒たち一人ひとりに伝え、生徒たちからもいろんな内容を受け取った。そんなステキなClearingだった。
(僕の話が長すぎたのか、中には「え、まだ話すの?」って言いそうな顔をしていた生徒もいたけれども笑)

その約1週間後、今度は前任校の生徒たちと2年ぶりの再会をし、互いの近況を伝え合った。思ったよりずっと多くの生徒たちが会いに来てくれて、当時のこと、今のこと、これからのことをたくさん話しながら、同時にいろんな気持ちのClearingをし合えて心からあたたかい気持ちになった。

そして今は、そのClearingでもらった言葉について少し迷っている。

「先生のあのときの○○な指導、すごく良かったし、今でも感謝しています」
「先生、あのとき✕✕してくれたじゃないですか。私すごく嬉しかったんですよねー」
「先生のあの授業、めっちゃ分かりやすくて私好きでしたー」

生徒からもらったこんな言葉があったのだけど。それはとても嬉しいし、もちろん本心から「ありがとう」と言うのだけど。

と同時に、『僕、今はそういう指導をしていないし、あのときみたいな対応もできないし、授業もあのときみたいにはやっていないんだ……』という事実があったりもする。

教員になって以来、自分の考えや経験、生徒や周囲の方の意見、いろんな本や講演会で得た知識などをベースに、指導方法や生徒との関わり方、授業方法、職員室での仕事の仕方など、あらゆる物事をいろんな形に変化させていった。

もちろんそれらは良かれと思って自分が選んだ「変化」なのだけど、その「変化」は必ずしも「進化」や「改善」ではなかったのかもしれない、と、生徒たちのClearingに頷きつつ、迷ってくる。

教育に答えはないし、指導方法や授業のやり方に合う生徒と合わない生徒がいるのは当たり前だということは分かっている。ただ、あの時に真剣に向き合っていた生徒たちが、あの時のことを「良かった」と言ってくれている。そして、それを捨てた僕がいる。

過去の自分を捨てるのは簡単だ。だが、過去の生徒たちを捨てることは僕にはできない。

新しい変化を導入してみるとき、「それは過去の生徒たちからはどう見えるのだろう」「その変化は過去に自分を信じてくれた生徒たちを裏切ることにならないか」そういうことを考えていかないと、それは教育者として無責任なのではないか。過去の教育理念と訣別をするのは良いけれど、そのためには「今までの教育理念のどこをどう、なぜ変えたのか」を今までの教え子たち全員に説明するくらいの気持ちが必要なのではないか。僕はそう思う。

だからといってもちろん、変えなければ良い、というわけではない。よりよい教育を探究し、つねに改善の手を緩めない、というスタンスはどの教育者も持つべきだ。でも、その探究の背後には確固とした教育者自身の芯が必要で、それがないとどんな改善も無責任なものになりかねない……。これは生徒たちのClearingから得られた僕自身の反省でもある。

 

10年に一度のペースで学習指導要領を変える文部科学省さまがその点をどう考えているのかは分からないけれど。