「失敗の可能性を担保しておく」ということ
探究型の授業について先生方と打合せをしていた。話題は、これからの授業で生徒たちの活動をどのようにサポートしていくか、ということだったのだけど、自分が思わず発していた言葉に僕自身が変に悩まされている。
いわく、
「そんなに手取り足取りサポートしていたら、生徒たちが失敗できなくなってしまいますよ?」
自分で言っておいてなんだけど、まあ理念は分かる、でも、どこまでそれでいいのか、という点に迷いもある。
周りの先生からの意見も本当にもっともで、
「生徒たちはいつ『失敗だ』『このままじゃマズイ』って気づくのか」
「場合によっては最後までそのことに気づかずに、なあなあで過ごして終わり、にもなりかねないよ」
と。
山王工業ではないけれど、「失敗したことがある」という経験はいつか必ず大きな財産になる。だから、教員が生徒にたいして「失敗してもいいから、自分たちだけの力でやってみて」と言うことってとても大切なことだと僕は思う。
だけど。
たぶん、それが上手に機能するには、生徒が自分たちの状態を客観的に把握することが必要で、それを促すためには生徒自身の内省だとか周囲のフィードバックが必要だ。
数学の授業で僕が比較的自由な形式を採用できているのは、定期テストや模擬試験などを通して生徒が「自分がどの程度理解できているか」を客観的に把握する機会がある、ということによる効果も大きい。
じゃあ、探究型の授業ではどうすればいいんだ。
中間発表でチーム外の人からコメントをもらうだとか、チーム内でのリフレクションの時間をつくるとか、定期的に面談をするとか、どこかで聞いたようなアイディアしか出てこない。
いや、それでもいいのか? とにかく手を尽くすことが大事なんだし。
とかいろいろ考えを巡らすのだけど、やっぱり最初の自分の言葉に戻る。
「そんなに手取り足取りサポートしていたら、生徒たちが失敗できなくなってしまいますよ?」
『「なあなあで過ごして終わり、という失敗」を生徒が経験すること』も、もっと許容して良いのではないか。
……さすがにこれは言い過ぎか? どうなんだ。