旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

職員室の3学期、あるいは教員と「評価」の関係について

3学期になると、職員室の話題は全国どこでもだいたい一緒。

「人事」だ。

僕は都合、5つの府県で職員室に通わせてもらっていたのだけど(立場は教員だったり学習支援員だったりスクールサポーターだったり様々だったが)、どこの職員室でも同じだった。

 

3学期は、人事の季節。

  • ○○先生は△年目だから今年は異動になるはずだ
  • ✕✕先生は家庭の都合で異動希望を出したらしい
  • 近くの□□学校の※※先生も今年異動だという話だ
  • …ということは○○先生と※※先生が交換になるかもしれない
  • いや、※※先生とうちの校長は折り合いが悪いからそれはない気がする
  • 初任の先生が来るんじゃないか。うちの校長、初任の先生好きだし

のような憶測ベースの話題から始まり、2月〜3月上旬には

  • うちの学校の○○先生、やっぱり異動願い出してたんだって
  • 次の提示は◎◎地区って話だから、やっぱり□□学校じゃないかな
  • そうか、じゃあ□□学校の先生に知り合いがいるからちょっと聞いてみるね
  • 聞いてみたけど、※※先生の提示は◇◇地区だったらしいよ
  • じゃあ、○○先生の後任はほかの学校の人か…、ちょっと周りに聞いてみるね
  • ほかの学校の情報だと、該当者は3人に絞られた感じだね
  • いや、初任の線も捨てがたいよ

などなど、ベテランの先生方が張り巡らせた独自のネットワークでどんどん情報を収集して情報の確度が上がっていく。

そして3月中旬になり、学校間人事異動の話がだいたい固まってくると、今度は校内人事に興味の対象が移っていく。

  • 担任の先生、あのクラスは持ち上がりだと思うけど、あっちのクラスは担任変わりそうだよね
  • あの先生とこの先生は相性悪いから担当が別々になるんじゃない?
  • ▽▽部、保護者と先生がうまくいってないらしいから、顧問変わるんじゃない?
  • でも後任の顧問の先生は? 誰もやりたがらないなら次来る若手の先生にやらせるのかな?
  • あの先生は今年と同じ役になってほしいけど、校長にこの前呼び出されてたからもしかしたら…
  • 逆にあの先生がこっちの部に来たらすごく活きると思うんだよね

といった具合で、これもまた延々と続いていく。

 

教育現場に関わった最初の頃は、その熱意というか興味関心の高さにびっくりしたのだけど、教員生活も長くなって、あまりにも毎年同じ光景が続いているので、最近ではこれは一種の文化・伝統の領域なんだと思った。

雰囲気で言うと、スポーツの世界の移籍だとかチーム内のポジション争いを、ファンが熱心に分析している様子に近いのかもしれない。

そういえば日本でも平安時代の貴族たちのいちばんの関心事は「人事」だったと言うし、そういう意味でもやっぱり文化とか伝統のたぐいなんじゃないかと思う。

 

正直なところ、この手の話に生産性はないと思っている。

だって、こんな話をしたところで何も変わらないんだから。ほんの数カ月待てば結果が分かることなのに、わざわざ学校内外のネットワークを駆使してまで曖昧な情報を流通させてもあまり意味がないじゃないか、と僕は思う。

そう思って僕は前の学校で自分の退職をなるべく伏せていたのだけど、それはそれで作法が違ったらしく、難しい。

こんなふうに思っているのは、たぶん僕だけではない。事実、どこの学校でも毎年数人は誰にも情報を渡さずに異動となる「サプライズ」が存在するし、人事のウワサが職員室で始まると嫌そうな顔をする人もいる。

 

じゃあ、なぜ多くの教員は人事を気にするのか。

その第一の理由は、教員という職業の「評価」への歪んだ執着にあるんじゃないかと僕は思う。

日々、生徒のことを「評価する」立場でありながら、生徒や保護者からは陰で(時に堂々と)「評価される」立場でもあるのが教員だ。

それが日常だとどうなるか。多くの教員は、生徒や保護者からの評価を(ほどよく)受け流すようになる。

まぁ、こちらの考えや事情を考慮しない意見も含め、あまりにも多くのいろんな声が聞こえてくるので、いちいち気に病んでいたら身がもたなくなる、という事情もある。

ちなみにこれはあくまで僕の観察による推測である。

そして、「生徒を評価する自分」と「生徒・保護者からの評価を無視する自分」の間に挟まれ、自分のやっている教育活動に自信が持てなくなったとき、「周りの人間からはどう見られているのか?」「自分の『本当の評価』はなんなのか?」という疑問を抱くようになり、結果として同僚や管理職からの評価に敏感になる。

「人事」はそこで大きな役割を果たす。

管理職は自分のことをどう思っているのか、同僚のあいつはどのように評価され、別のあの人からはどう見られているのか。「人事」のウワサ話の流通と共に、直接または間接的に、様々な形の「評価」もまた流通して回る。そのウワサと実際の人事の結果を照らし合わせ、それらを「周囲からの本当の評価」として捉えることで、教員は日頃の心の中の「歪み」を調整しているのではないか。

もちろん、民間企業でもそのような側面はあるだろう。けれど、民間企業と教員とには大きな違いがあると思っている。教員の世界には、民間企業にあるような、「昇進」や「昇給」といった成果を評価される仕組みがほとんどないのだ。昇進はある年齢になって試験を受けなければならないし、昇給も毎年一定なのが暗黙の了解。だから、本当の意味で「周囲からの評価を受ける」場が実質「人事」に集約されているのだ。

一応「目標管理」「成果評価」的なイベントは学校にもあるのだけど、基本的に全部事なかれで終わるので、まっとうなフィードバックとして機能していないのが現状。

 

「評価をしながら評価を無視するという『歪み』から、『周囲からの正確な評価』を求める」という教員のメンタリティ、そして「周囲からの評価が分かる、実質唯一の機会としての『人事』」という教員の制度。

その2点が、教員の世界の「人事」への極端な執着に繋がっているのではないか、と僕は考えている。

 

さて。

今年度はどうやって人事の話題から遠ざかろうかな。