旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

授業スタイルの多様性、あるいは「教えない授業」で教えていることについて

ちょっとした 魔女狩り だと思った。

…と書くと物騒なのだけど、まぁ実際そんな感じだ。恐ろしさと、哀しさと、怒りのこみ上げる発言だった。

発言の主は、とある権威者。もちろん僕なんかよりずっと強い発言力を持っている。
発言の場は、とある研修。授業の目指すべき姿について語り合う場だった。

「授業には“全体に向けて教える”という部分と“個人・グループで考える”という部分が必ず必要」
全体に向けての部分がない、いわゆる“教えない授業”なんてのはありえない」
その権威者がやや唐突にこう発言した。

誰に向けての話かはほぼ明らかだった。1カ月半ほど前、いわゆる“教えない授業”で研究授業を行った2人の教員。そのうちの1人は僕だ。
権威者の「ありえない」という言い切りに対して、反論のタイミングは与えられなかった。僕ともう1人の教員はただ哀しく苦笑していた。

もちろん、授業についての考え方に多様性があるのはいい。
一斉講義型の授業をする教員がいるのもいいし、グループ学習主体の教員がいてもいいし、それとは違った形で授業を行う教員だっていてもいい。
そして、それらのどの形式にどういったメリット・デメリットがあって、どのような改善の方向が考えられるかという議論・対話を重ねていくのはとても有意義なことだと思っている。

ただ、今回のように 権威者公式の場 で、 特定の授業形式頭ごなしに否定する のは違う、と単純にそう思った。

これじゃ 魔女狩り じゃないか。

僕ともう1人の先生の授業形式がその権威者にとって納得のいかないものであったことは仕方ない。でも、それならば該当の教員に直接それを伝えればいいだけのこと。研修の場で権威者がそんな発言をしてしまったら、自由に新しい授業方法を試そうとする教員がどんどん少なくなる。その方がずっとマイナスなことなんじゃないか。“多様性を尊重する”生徒を育てたいなら、教員に同質性を求めてどうするんだ。

そんなことを考えてずっともやもやしていた。

 

……。

 

さて、愚痴はここまで。笑
僕の意見、特に授業スタイルの考え方をもう一度整理しておこう。

前述の通り、僕は最近の授業では「全体に対して一斉で何かを教える」ということをほとんどしていない。授業の最初に一言二言の学習アドバイスと連絡事項だけを話して、必要があるときだけプリントを配ったりする。あとはほぼ個別対応しているだけ。みんなで同じ問題を解いたり黒板に向かって解説をするのは3年生のセンター演習のときくらいだ。

ただ、これは「全体に対して一斉で何かを教える」ことをしていないだけで「何も教えていない」わけではないと思っている。むしろ、一斉講義型の授業では教えられないことをたくさん教えているつもりでいる。 

では何を教えているのか。ぱっと思いついたことを列挙しただけでも、

  • 「やらされたこと」よりも「自分の意志でやったこと」の方がずっと自分の力になること
  • 自分の意志で目標を立て、自分の意志で計画を立て、自分の意志で計画を実行すること
  • 計画は往々にして崩れるし、人は楽な方に流れがちだし、本当に上手くいくことなんてなかなかないけれど、最終的には自分でそれを上手く運べるようにしなければならないこと
  • 困ったときには「困った」と自分から周りに助けを求めていくことが大切なこと
  • 「困った」と言ってきた相手を大切にすることは自分を大切にすることにも繋がること

などなど。本当にいくらでもある。

もちろん、「高校の教科学習では教科の学問的な魅力なども伝えていくべき」という主張は理解できるし賛同もする。僕のような授業スタイルでやっていると、生徒にそういった学問的魅力を伝える時間が少なくなってしまうのも事実だし、それに対する指摘は受け入れなければならない。

だけど、高校での教科学習って別に学問的な内容だけを教えるための時間ではないでしょ、とも思う。学問的な内容も大切だけれど、生徒によってはそれよりも上で挙げたような「学習の仕方」だとか「目標への向き合い方」「周囲との協力の仕方」だとかの方が大切で、学校の中でそういったことも学べる授業があってもいいでしょ、と。

僕の授業は、学問的に深い内容は“教えない授業”に見えるかもしれないけれど、それとは違った内容を違ったアプローチで“教える”ことで、生徒の今後の人生が豊かになるきっかけを提供しているつもりだ。
(ちなみに学問的に深い内容をまったく教えていないわけではない。授業中の個別のやりとりの中でそういう話になることも結構ある)

 

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いろいろ書いてみたけれど、僕のスタンスに納得できない方もいるだろう。それくらい極端なことを言っている自覚はある。その意味では前述の権威者の方の考えも分からなくはない。

「生徒一人ひとりの人生を豊かにすること」は教員の最終目標だけれど、「どう豊かにしていきたいのか」は教員によって違う。それだけのこと。

それはそれで悪いことではないし、むしろ良いことだと思う。人間が人間を教えるってそういうことだし、いろんな考えやスタンスの教員に触れることで生徒たちは自分の価値観を形成できるからだ。

 

だからこそ…

権威による教員の魔女狩り、やっぱやってほしくなかったな。