「キャリアプラン」を「検討」すること、あるいは「進路」を「指導」すること
勤務校には「キャリアプランニング検討会」という会がある。
その会では生徒が書いた希望進路先などを見ながら、教員がその内容に対する提案や情報共有、懸念点などを発言していくのだけど、その会に出席していて毎回思う。
『大卒→教員 というキャリアしか知らない先生方がほとんどなのに、生徒たちはその先生方に自分のキャリアプランを“検討”してほしいと本当に思っているのか?』
『というか、キャリアプランってそもそも他人に“検討”してもらうものなのか?』
…
もちろん、
「キャリアプランについて迷っているのでアドバイスをしてほしい」
と自分から言ってきた生徒に対して、先生方の見解でアドバイスをすることは大切なことだと思う。
だけど、生徒本人が特にアドバイスを求めてもいないのに、
進路希望先や家庭の状況などの個人情報等を多くの教員に晒し、議論され、自分の今後のキャリアに対して
「先生方の“検討”の結果、○○という方向はどうかと意見が出ました」
と報告されるのは、ちょっとムリヤリが過ぎないか、と僕は思う。
少なくとも僕が生徒だったら、……とても嫌だ。
原則を確認する必要があると思う。
生徒のキャリアをプランニングするのは、あくまで生徒本人。
それに加えて、生徒が未成年の場合に保護者の意向が入るのも仕方ない。
それ以外はいわば「参考意見」であり「オプション」だ。
だから、生徒のキャリアプランニングに学校や教員が入り込むのは、あくまで「本人・保護者に求められたとき」だけでいいんじゃないか。
あえて公式の場で、全員の生徒に対して「キャリアプランを“検討”する」という行為は必要ないんじゃないか。
ちなみに補足しておくと、同様の「検討会」は県内のほとんどの高校で行われているとのことで、学校によってはこの「検討会」での決定が相当な強制力を持つケースもあるらしく、勤務校のように「最終的には本人の決定に委ねる」という形での「検討会」はむしろ「自主性を重んじている」部類に数えられるらしい。
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「進路指導」もそうだ。
生徒の「進路」は「指導」してはならない、と僕は思う。
各種国語辞典に
しどう【指導】
とあるように、「指導」という単語には、目指すべき「目的」や「方向」が意図されている。
その意味でやはり、生徒の「進路」は「指導」してはならないのではないか。
一方で文科省が
『変化が激しく将来の予測が困難な時代にあってこそ、子供たちが自信を持って自分の人生を切り拓き、よりよい社会を創り出していくことができるよう、必要な力を確実に育んでいくことが求められている』
という言い方をしておきながら、生徒が将来的に進む道(進路)については「目指すべき目的や方向に向けて教え導く」、というのはどうにも矛盾している気がしてならない。
生徒全員対象の「キャリアプランニング検討会」は、希望者対象で相談相手の教員も自分で選べる形式の「キャリア相談会」に、
「進路指導」は必要なときに自由にアクセスできる「キャリアアドバイス」に、
それぞれ発展的に変更させていくことはできないものだろうか。
そうやって、生徒が自分の進路目標に向かう姿をサポートしていくことが、教員にとって大事なんじゃないかと僕は思う。