旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

「平均」を見て議論すること、あるいは集団を「分かった」と思うこと

生徒たちはよく「平均点」を気にする。

 

試験を返したあとに

「先生、平均点は何点ですか?」

と聞かれるのだけど、以前の私はだいたい一言、

「知らない」

ぶっきらぼうに答えるだけだった。

まあ、本当に切実な理由で平均点を知りたい生徒も中にはいるので、最近はそんなに冷たい反応はしていないのだけど。少なくとも自分から「平均点は○点でした」のような発表をすることはない。

 

「この学校で平均点を知って、どんな意味があるの?」

と質問を返したこともある。これはいじわるではなくて、本当に個人的な興味として。

 

というのも、勤務校は学校としても校務制度としても、「平均点」の意味がなくなるような特徴ばかりを持っているからだ。

 

そのような特徴を簡単に挙げていくと、

  • 習熟度別の少人数クラスである
    ▷ そもそも少人数なので平均点がぶれやすいし、習熟度別に違う問題なのでクラス間比較もできなければ習熟度別のメンバー入れ替えがあるので前の定期テストとの比較もできない。
  • 学年ごとの多様性が激しい
    ▷ 全国から生徒が集まってくる関係もあり、勤務校は学年によって学力層が大きく異なるし、クラスの習熟度の分け方も年度ごとにゼロベースで議論をしている。その状態では少なくとも他学年や前年度との単純比較ができない。
  • 生徒の進路が、超がつくほど多様である
    ▷ 1つのクラスに難関大学志望者と就職志望者がいるのが勤務校の最大の特徴である。同じ授業を受けていたとしても、それぞれ必要なレベルが全然異なるのだから、「平均」を気にしても意味がないし、それを知っても誰の参考にもならない。

など。

つまるところ、「平均点」が意味をなすための大前提である「同質な生徒が大量にいる」という状況が、勤務校には存在しないのだ。

(もちろんいい意味で)

 

ただ、「勤務校においての”平均点”を知ることの意味が分からない」とは言っても、もちろん「平均を知りたい」と言ってくる生徒の気持ちが完全に分からないわけではない。

「平均」を知ることで、何か全体の状況やその中での自分の状況が「分かった」気にはなるし、それが安心の材料にもなるのだろう。

 

うん、その気持ちは分かる。

 

でも、やはりもう一度考えてほしい、とも思う。

  • 今回のテストは平均点がいつもより低かったから、私の点数が低くても安心
  • 次のテストでは最低でも平均点を目指す

なんていうのは全国の中高生のお決まりの文句なのだけど、(勤務校のように)学校の制度や状況によっては、これらの言葉にほとんど意味がなくなるのだ。

「平均点」みたいな、よく分からない”世間”の代表みたいな存在にびくびくしたり優越感をもったりするのではなくて、もっと「自分自身」と向き合ったほうがずっと有益だと思っている。

そもそも中学・高校の定期テストがいかにテキトーに作られているか(もちろん真面目に丁寧に作成している先生方もいる)を知っている身としては、学校の定期テストの結果で一喜一憂する必要すらないと思うのだけど。これは蛇足。

 

問題は、ここからだ。

 

本当の問題は、教員の中にも「平均点」信者がいること。

(さらに厄介なことに、そういった方が校内研修などを担当していること)

 

たとえば高校3年生の数学の例で言うと、

  • 進路に向けての数学の使い方
    ▷ 数学Ⅲまで使う生徒、数学IA・ⅡBを使う生徒、数学IAのみを使う生徒、数学を使わない生徒
  • 履修している数学の授業コマ数
    ▷ 週9コマの生徒、週6コマの生徒、週3コマの生徒、週0コマの生徒
  • 進路に向けた試験の時期
    ▷ 試験が9月にある生徒、12月にある生徒、センター試験までの生徒、2次試験までの生徒

と、簡単に挙げただけでも何十種類ものパターンの「数学との関わり方」がある。しかもその分布は、学年ごとにガラッと変わる。

 

それを完全に無視して、たとえば全員が受けている外部模試の、学年全体の「平均点」を用いて

「昨年度と比較して上がった点としては……」
「○○の点数が低いから今後は……」
「このデータをエビデンスに……」

などと議論することにはほとんど意味がないことなのに、まあ、それをしてしまっている現状がある。

一応補足しておくと、勤務校のような学校でも、外部模試の結果は「特定の個人に対するアドバイスの参考資料」としては十分に使うことができる。まあ、それにしても校内順位などは基本的にあてにならないので注意が必要だけれども。

 

「平均点」はたしかに「分かりやすい」

 

しかし、「平均点」は見た人を「分かった気にさせてしまう」ものでもある。
本当はとても複雑で、個別にじっくりとデータを見ていかないと到底分からないような事柄でも、「平均点」を見ると把握ができた気になってしまう。

もちろん、何十万人に影響のある政策だとか、大量のデータを処理すべき事柄の中で、平均を使うことが必要なときもあるし、それは個々の人やデータの「顔が見えない」状況だから仕方がないとも言える。だけど、そういうときも母集団の性質を把握しておくことは必要だし、平均のほかに分散や中央値などほかの指標の併用も欠かせない。

その意味で学校は、規模の大小はあれど少なからず「顔が見える」関係だし、平均を使うにせよ使わないにせよ、母集団の性質を考えなくてよい理由もない。

 

「平均点」を見て個人を見ず、それを「エビデンス」として立てた方策は、果たしてどこを向いているのだろうか。

(そんな方法で方策を考えるくらいなら、生徒のナマの声を聴いた方が何倍も有益だと思うんだけどなあ)

 

 

 

 

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蛇足。

さらに言うと、実は、必ず正しいと言える状態で生徒の状況が分かったとしても、「どんな方策をとるのがいいか」は1つに決まるわけではない。

たとえば、「○○は得意で✕✕は苦手だ」と分かったとしても「✕✕を鍛えよう」という方策と「○○をもっと伸ばそう」という方策のどちらが良いかは分からないし、どちらかが正しいわけでもない。

「勉強の仕方が分からない」のなら、「勉強の仕方を教える」のもいいけど、「自分で勉強の仕方を考える機会を与える」のだって十分に理にかなった方策だ。

その意味で、「データによると生徒たちは〜〜なのだから**しなさい」という言説にも本当は論理性が何もないのだけど。なんだかなあ。