旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

「授業が崩壊する」とはどういうことか。

この記事は僕がいま実践している授業スタイルを前提に書いている。

なので、できれば前提知識として以下の記事をご一読いただいてから下記に進んでいただきたい。

traveling-teacher.hatenablog.jp

最近、僕の授業を見学してくださった方から「このままでは授業が崩壊するよ」と、端的にそう言われた。

まあ、僕の授業は自他共に認める実験的授業だし、いろんな条件が重なって、上手く進むこともあれば上手く進まないこともある。たぶんその波は、普通の授業スタイルよりも大きい。

その意味で、『今日は上手くいかなかったな』という授業の回であれば、「このままでは…」という指摘ももっともだと、とてもよく納得できるのだけど。

何を隠そう、その日の授業は、僕から見てむしろ “とても良い学びの空間” だった。

  1. 前方の席で真剣に授業を聞き、練習問題に率先して取り組む生徒
  2. 教室の中ぐらいで自分の問題集を開き、自分のペースで学習を進めながら、たまに僕の授業の声を聴いては質問をしてくる生徒
  3. 教室の後方でグループになりながら、黒板やプリント、問題集の内容を題材に数学的な議論を重ねている生徒
  4. その生徒ら全員が違和感なく同一の場に共存している

そんなステキな空間だったように、少なくとも僕にはそう思えた。

そして、だからこそ「授業が崩壊する」という一言がショックだったし、悲しくなったし、理解できない、と思った。

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そもそも、「授業崩壊」とはどういう現象を指しているのだろう、と思った。一般的には「生徒が歩き回っている」だとか「生徒が教員の話を聞かない」だとか「教員の指示が通らない」だとかの状態を指して「授業崩壊」と呼んでいるのだと思うのだけど、僕はどうにも納得がいかない。

生徒が歩き回っていても、教員の話を聞かなくても、指示が通ってなくても、生徒に「学ぶ意志」があって、それを教員が受け止め・受け入れることができていればそれは「授業崩壊」とは言わないのではないか。だからむしろ、「授業崩壊」とは生徒の行動によってではなく生徒の行動を教員がどう受け止めるか・受け入れるかであり、さらに言うと生徒と教員の意思疎通がどの程度できているかで決まるのではないか。

この発想で僕なりの「授業崩壊」を定義するなら「授業者(教員)の意図と学び手(生徒)の意図に不整合がある状態」ということになるだろうか。

この定義を採用すると、たとえ生徒が静かに席に座って教員の話を聞いていても、生徒が『そんなことやりたくない』と思っているのなら「授業崩壊」の一種だということになるし、生徒が動き回って収集がつかないように見える授業でも教員側がそれを受け止め、その状態から何かを学ばせたいと意図を持っているのなら「授業崩壊」とは呼ばないことになる。……僕にとってはこの定義の方が、より自然な定義だと思っているのだけど、どうなのだろう。

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僕自身、授業の方針やスタイルについては、いろんな迷いもあるし、この定義だって「今の僕にとっての」ものであって、確固としたものでは全然ない。

だからこそ、多くの方と対話してみたい。もちろん、先日の見学者の方のように、僕のような授業方針に反対する方々とも。

見学者の一言から数日経ち、その瞬間のショックや悲しみや不可解から、今は探究心が勝っている。