旅する教師の業務報告

「旅する教師」として「みんなを自由にする」活動をしています。ご査収ください。

「大人の思い通りに動く生徒」を望んでいる教員たち、あるいは社会に巣食う支配欲求の病理について

今回は一言目でケンカを売ってしまおう。

この世の中には『生徒を自分の思い通りにしたい』と思っている教員がたくさんいる。

「授業中に真剣に話を聞いてくれる生徒」
「出した指示に『はい!』と元気よく返事をしてすぐに行動してくれる生徒」
「どんなときも教員に相談をして、素直に聞き入れてくれる生徒」
「教員の意図を汲んだ言動をしてくれる生徒」…

挙げはじめればキリがないけれど、意識的にあるいは無意識的に、そんな生徒を求め、そんな生徒を育てようとしている教員がたくさんいる。いや、本当のことを言うと、かつての自分もそうだったし、今の自分の中にもその欲求が顔を出してしまうことがたまにある。

醜いな、と、自分も含めてそういう教員には率直に思う。生徒をムリに思い通りに動かしたところで、生徒は内面ではきっと拒否をしているに違いないし、教員側はただ虚勢に酔いしれ・生徒側は自分で物事を考える力を失っていくという負のスパイラルが待っている。

一旦スパイラルにはまってしまうと、教員は思い上がりの虚勢を背に生徒を支配しながらさらに醜い存在になり、生徒は教員に従順に従うだけの奴隷のような存在になる。(いや、むしろ現代日本の教育はそのスパイラルを降りきっているのではないか、とも思わないでもないが…)

反論される方もいるだろう。そのような教育活動にも意味はある、と。

もちろん、教員の仕事をしていると、ある程度強制的な指示が必要なこともある。たとえば生徒が危険な行動をしている場合やいじめ・暴力の現場など、そんなときは「教員の思い通りに生徒を動かす」ことはむしろ欠かせないだろう。だが、そんな例は日常的にさほど多いわけではないし、多くの教員はむしろそういった行動と縁遠いマジメな生徒たちの方を思い通りに動かそうとすることが多いので、基本的には正当化しにくいと私は考えている。

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教員は「生徒の前に立つ仕事」であるし、「生徒を教え導くことを期待されている仕事」でもある。だけどそれは「生徒を従える仕事」ではないし、「生徒に特定の行動を取らせることを期待されている仕事」でもない。その少しのズレが進行していくと、「教員は生徒を思い通りに動かさなければならない」という幻想に行きつき、果ては「生徒を思い通りに動かせない教員は教員失格である」と言った極端な論すらも生まれてくる。

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いや、これは学校だけに限らないのだろう。

「部下を思い通りに動かしたがる上司」
「従業員を思い通りに動かしたがる経営者」
「後輩を思い通りに動かしたがる先輩」
「子どもを思い通りに動かしたがる親」
「国民を思い通りに動かしたがる政治家」…

社会全体を見渡せば、似た構造の関係はいくらでもある。この中にはもちろん「思い通りに動かす」ことが正当な場面もあるだろう。だが、それのすべてが”支配欲求”による行動ではないと本当に言えるだろうか。それが社会的に負のスパイラルを生み出していないと本当に言えるのだろうか。

私はこれを病理だと思っている。そして、これを生み出した原因の大半は既存の学校教育にあるとも思っている。

社会全体に巣食うこの病理にどう立ち向かうか。私は教育の現場から変えていきたい。